『良心の危機』、著者のものみの塔感覚に対する違和感

良心の危機に覚える不快感

ものみの塔は「ふるさと」にはなり得ない

『良心の危機』、第11章「決心」から。著者のたどる経歴は何となく知っていたので、この章あたりから激動するのかと読み進めるも、何となく不快感のある章。

しょうもないものみの塔本からの引用が減ったのは良いのだが、読みながら著者に感情移入したあと、はっと我に返る。すると著者の真意には、ものみの塔に対する僅かな親しみ、のようなモノが混じっていて不快感を覚える。

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私は育ったふるさとを捨てたのだが、それはそこで育っているときにエホバの証人の子どもであったために、ふるさとが不愉快な記憶で満ち満ちているから。育った場所より、脱会後に住んだ場所の方が長いので、出身地としてそのふるさとの名を上げることもない。

とはいえ、そのふるさとが憎いかと言えばそうでもない。そのふるさとの記憶が忌ま忌ましいのは、そこがコンビニ一軒すらない田舎だからというわけでなく、エホバの証人の子どもだった自分自身に由来する。

なので、そのふるさとが嫌いかと言われれば、そうでもなく。あんな田舎には二度と住みたくないけれど、景色は良いし、中には良い奴もいたくらいの感情。

著者のものみの塔に対する感覚もこれに似ている。だから不愉快に感じる。私のものみの塔に対する感覚は違って、ものみの塔は心の底から憎い、嫌い、忌むべきモノ。カルト。滅びろと。

結局、現役信者だった頃の著者は、常に受け身で自らの所属するカルトに対して刃を振り上げることはなかった。本人がものみの塔をカルトと認識していないから。著者からは、ものみの塔は完全悪でなく良い面もあるという、微かな懐郷の念を感じる。

不愉快なエホバの証人だらけの環境での永遠は地獄

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ものみの塔の希望的妄想、終わらない「終わりの日」

ものみの塔の暫定真理、それは真理じゃない

ものみの塔の終わらない「終わりの日」

『良心の危機』、第10章 1914年と「この世代」から。「この世代」が死に絶える前に、世界に終末が到来するというのが、ものみの塔の年代予測。

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「この世代」というのは1914年の世代。エホバの証人にとって、当初は終着地点だった1914年はいつか始まりの年になり、その始まりの解釈も延々と先送りされてきた。

1914年の世代、当初は1914年に壮年だった者の世代、この人たちが最大限長生きしたとして130才になるくらいまでに、この世の終わりが来るとされていた。

これが徐々に延ばされ、第一次世界大戦の終戦のまで世代は引っ張れると、終戦の1918年までの4年間をチマチマと稼いでみたり。

さらに時が過ぎると、1914年生まれでもいいんじゃねと、1914年生まれの赤ちゃんが全員寿命で死に絶えるまでと延長。

現在の設定では、1914年っぽい雰囲気を味わった世代が死に絶えるまでとなっているはず。解釈次第でどこまでも延長できる実質無期限。

1914年だと日本だと大正時代、はいからさんが通るの頃。大正ロマンなんてとうに失われているので、とっくに時間切れ。しかし、ものみの塔に言わせれば、1914年以降の終わりの日が継続中という設定らしい。終わらない「終わりの日」が。

※2025/3追記。現在は1914年の世代と重なるもう一つの世代が全滅するまで、くらいに再々再々延長。重なる世代を増やしていけば、無限に延長できるのでこれは予言こじつげるにしても楽だな。

ものみの塔の予言は単なる見解、信ずるに値しないのだが・・・

真理ではない1914年のものみの塔教理

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今ここで、宇宙の主権論争に終止符を。他人に自分の世界を奪われるな

ホンモノの宇宙の主権者とは?

ものみの塔の生殺与奪権を握られているエホバの証人

最近の記事で、ものみの塔はただの一度も終末の予言を当てていない、と書き続けた。終末の予言どころか、他の予言についても、大したことのない些細な現実を、あくまで聖書の予言の実現にこじつけているだけ。

エホバの証人信者たちは、一切当たらない年代予測に愛想を尽かしてしまいそうなものだが、21世紀の今でも、いまだに何百万人の信者が存在する。

それは、信者にとってものみの塔の教理の矛盾を指摘したり、教団の年代予測に疑問を持つことは最大のタブーとされているから。

このタブーを犯せば背教者とみなされ、組織から排斥される。排斥=終末の日の滅びを意味するので、マインドコントロール下にある信者は、当たらない予言を盲目的に信じるしかない。

こうしてエホバの証人は、生殺与奪権をものみの塔に握られ、当たらない予言を未検証のまま信じるしかなくなる。結果、振り回され続け、人生を完璧に損なう。

ものみの塔協会は予言ハズシの老舗、偽予言者の伝統芸

エホバ、サタンが存在しない理由

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「終了した秘儀」からの「万民キャンペーン」、そしてマインドコントロール

ものみの塔の誇大妄想的大予言

ものみの塔の脅迫

『良心の危機』第8章「正当化と脅迫」。本章も、ものみの塔本からの引用が多く読み進めるのが苦痛。基本的には前章と同じく、もはや伝統芸と化したものみの塔の予言ハズシの実態を、時を追いながら追及している。

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ものみの塔の予言ハズシは伝統芸のごとくパターン化している。当初は断定的にイケイケで予言。しかし、その時が近づくと急ブレーキ。神の名を借りて断定したわけではない、あくまで人間の見解なので間違うこともある、と弱腰に。この繰り返し。

本章以降で強くなる傾向が信者に対する「脅迫」。信じられない者は、神の名を借りた組織に対する「忠誠心」が足りないと攻撃する。忠誠心が足りないとどうなるのか?待っているのは滅び。

誰もが無残に滅びたくはないので、信者たちはこの脅迫に従わざるを得ない。これがマインドコントロール。ものみの塔は信者をマインドコントロールしており、思考・行動を操作する。こうして信者たちは思考・行動の自由をカルト塔協会に奪われる。

「終了した秘儀」からの「万民キャンペーン」

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信用に値しないと自身で認めるものみの塔、当たらない予想屋

当たらない予想屋ものみの塔

人間だから間違うというものみの塔は信用に値しない

『良心の危機』第7章「予言と独断」。本章の末尾部分でものみの塔の「目ざめよ!」誌1993年3月22日号が掲載されている。内容は、ものみの塔が予言をハズしまくったことに関して、偽預言者ではないという見苦しい弁明。

この「目ざめよ!」の1993年当時の私は、エホバの証人脱会決意を固めていた少年。中学生になる直前。この記事を覚えていないのは、ろくに読んでいなかったからか。脱会した後に読んでいれば、ものみの塔のことをボロクソに言う材料にしたと思うのだが、今代わりに言っておこう。

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この「目ざめよ!」誌の本文はこう。予言する人について

自分の語っている事柄は正しいと誠実に信じている人もいます。そうした人々は、聖書の言葉の一部や物理的現象について独自の解釈に基づいた期待を唱えます。エホバから直接啓示を受けて予言している、つまりエホバの名前によって預言しているとは唱えません。ですから、そのような場合、予言がそのとおりにならなくても

偽預言者とみなすべきではありません。人間は誤りを犯しやすいため、物事を誤解していたのです

だから、ものみの塔を偽予言者と呼ばないでということ。もともと独自の見解を述べているだけだし、人間だもの、間違いはあるから許してねと。

ここに書いてあることがすべて真実だとは決して思えないが、話の筋には辻褄が通っている。以下の流れ。

  1. ものみの塔は誠実な人間の集団で、聖書の独自解釈で予言している
  2. そして、人間なので間違うことも多々ある

ということ。よく理解できる。つまりは

  • ものみの塔は信用に値しない

もうちょっと優しく判断すると

  • ものみの塔の予言は信用に値しない

くらいだろうか。

ものみの塔協会は予言ハズシの老舗、偽預言者の伝統芸

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ものみの塔の予言は単なる見解にすぎない、信ずるに値しない

インチキ予言者ものみの塔

ものみの塔の予言は時が来ると見解に変わる

『良心の危機』第7章「予言と独断」より。エホバの証人の予言によると、かつては1914年が終着駅だったのだが、いつの間にか1914年が出発地点になっていたと昨日の記事で書いた。

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1914年以前のものみの塔本では

1914年が「不完全な人間たちによる統治の終わりである」と断言されている

しかし、

1914年について自信満々に予言していたことが起こらなかったため

1914年以降のものみの塔本では、予言ハズシを隠すために

明らかな手直しが行われている

当時ものみの塔会長であったラッセルは1914年何が起こるかについて特に何も言っていなかった

ことにされている。さらに

強い期待感や独断的な主張があったとすればそれはラッセルではない側、つまり読者の側に責任があった

という書き方をするようになった。末端信者への責任転嫁。

本書の著者はこれがいかに欺瞞であるか、退屈な大昔のものみの塔本をきっちり引用して証明している。

1914年以前のものみの塔は、1914年に地上の国家権力が崩壊するのは揺るがない真理と書いている。ところが1914年が近づくと日和って

我々としては異邦人の時が患難の時に終わることについて、あるいはそれに続いてやってくる栄光の時代について、何も預言したことはないのです。我々はただ聖書の言うところを示し、その意味について我々の見解を示したのであり、これがいかなる意味を持つかについては読者諸君それぞれが判断してもらえるようお願いしたようなわけなのです

と、消化不良な書き方になる。

ものみの塔が言う見解というのは、単なる妄想に過ぎない。かつては確信に満ちた真理と書き、刻限が近づくと一見解ですと及び腰になる。これがものみの塔詐欺。これは、確信に満ちた私の見解です。

ものみの塔の人生そのものを操作されるエホバの証人

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ものみの塔協会は予言ハズシの老舗、偽予言者の伝統芸

偽予言者、ものみの塔

『良心の危機』、読みにくい第7章・・・

『良心の危機』第7章「予言と独断」、聖書「申命記」からの引用をさらに引用。

もし預言者がエホバの名において話しても、その言葉が実現せず、そのとおりにならなければ、それはエホバが話されなかった言葉である。その預言者はせん越にそれを話したのである

エホバ、エホバ書いてあるので、忌々しいエホバの証人の新世界訳からの引用だと思うのだが、つまりは予言をハズした奴はせん越な偽予言者だと。これは他でもない、ものみの塔のこと。

ものみの塔は、世界の終末ハルマゲドンの予言をやがて150年ハズし続けている。信者を惑わすものみの塔は完全なる偽予言者。

「予言ハズシても信者減らねぇっす」という麻薬中毒のものみの塔

ものみの塔協会の統治体の予言は時代ごとに現れる偽予言者の世迷言

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本章の主旨やものみの塔の正体は前述の聖書からの引用ですべてなのだが、この7章は続く。予言ハズシの実態をものみの塔の宗教本から多数引用して糾弾している。

この章はものみの塔の引用が退屈でしょうもないので読み進めるのが苦痛。しかも傍線が引いてあったりして、著者のエホバの証人らしさが出ている。私も、かつてエホバの証人2世信者であることを強制されていた頃、こうして宗教本に下線を引いて予習をさせられた。

偽予言者の伝統芸、信者を欺く「神技」

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エホバの証人の統治体「我々は何でも許されるが、一般信者どもは黙って言うことを聞け」

エホバの証人の統治体の二重基準

エホバの証人、権威構造の宗教に救いはない

『良心の危機』、第6章「二重基準と御都合主義」より。

マウライのエホバの証人は踏み絵を踏むのを許されずに迫害を受け、生死を脅かされる。その一方で、メキシコのエホバの証人は賄賂を支払って軍務修了の証明書を入手。予備軍に参入していた。

メキシコのエホバの証人組織の脱法はそれだけに留まらず、組織そのものが宗教組織でなく文化組織の体裁をとっていた。祈らず、歌わず、聖書を持ち歩かずという神の冒涜三原則。

それはメキシコで土地などの資産を追い求める手段として。神より財産という物質的合理主義。

ここまでが昨日の記事

なぜ、エホバの証人組織にはここまでの地域間格差があるのか?というのが本日の入り口。答えはエホバの証人が偽者のカルトだからなのだが、本書ではそれを明快に指摘している。

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キリスト教を規律の形で扱う権威構造によく現れる産物だと今の私は考えている。権威構造に関わる人たちは、それほど良心にやましさを感じることなく二重の基準があるのを見ていられるようになってしまう

エホバの証人は、一部の人間の権威欲を満たすための宗教を隠れ蓑にした組織。その欲望の犠牲になって死んだり、人生を圧倒的に損なったり。権威者にとってはそれは目に留める必要もないこと。

地域間格差に良心を痛める一般信者がいる一方で

「トップ」に立ち、いわゆる「象牙の塔」にいる人たちは不思議なほどにそういう感情とは無縁で、この二重基準が人々にもたらす影響には感じるところがない

地域に不公平があろうが、いかに全体をたぶらかし、上手く統治するか。それしか考えていない。個別の家族の不幸など一切関与しない。こんな宗教、いやカルトに救いがあるわけがない。

組織の言うことは絶対!エホバの証人

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踏み絵を踏むのを許されるメキシコのエホバの証人、許されないマウライのエホバの証人

エホバの証人のダブルスタンダート

マウライとメキシコのエホバの証人の格差

『良心の危機』、第6章「二重基準と御都合主義」から。

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本章では、かつてのマウライとメキシコのエホバの証人格差を指摘。

マウライのエホバの証人は一党独裁政権の党、つまりは政府の党員カードを購入することを拒否。結果、マウライのエホバの証人は家を焼かれて殺害されたり、強姦されたりという迫害を受ける。

ものみの塔は党員カードを購入すればエホバの証人とは見なさない、排斥処分とするという指針を打ち出した。そのため、党員カードの購入はマウライのエホバの証人にとって「踏み絵」として機能した。

同時期、メキシコでは別の基準がものみの塔によって運用されていた。メキシコのエホバの証人は役人に賄賂を支払って兵役を回避。それはものみの塔本部の認める所だった。この二重基準についてはエホバの証人の統治体メンバーも関知。

メキシコでは賄賂を支払い軍務を修了したという証明書を手に入れると、予備軍に所属することになる。世界中のエホバの証人は、兵役の代替公務すら拒否して投獄の憂き目にあっている。何たる格差。

エホバの証人の兵役拒否、代替公務に対する認否の変遷

マウライのエホバの証人は生命・人権が脅かされるほどに迫害された。一方、メキシコのエホバの証人は兵役を拒否するため、賄賂で偽造文書を手に入れるという不正を犯し、建前上は予備軍に所属する。

メキシコのエホバの証人は自身の置かれた矛盾状態に心を痛め、再三ものみの塔の世界本部へ問い合わせを入れている。それでも、この二重基準が変更されることはなかった。

「踏み絵」踏みまくりのメキシコのエホバの証人

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『一九八四年』~邪神とよこしまな組織を見極める方法

カルト宗教判別法

古来から騙され続けてきた人々

近未来の(今となっては既に過去設定だが)仮想全体主義国家を描いた『1984年』。本ブログの主旨であるエホバの証人というカルト宗教のなかにそっくりだと思いながら読む。

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著者自らが書いた巻末の附録、作中で使われるニュースピークという言語の設定を解説したもの。解説と言いながら、未来からニュースピーク当時を振り返る書き方がされていて不思議な部分(ここは解説に詳しい)。この附録に「エホバ」が登場する。

党員に必要とされたのは、自国の民以外の民は「邪神」を崇拝しているということ以外、他のことをほとんど知らなかった古代のヘブライ人と同じようなものの見方をすること

党員はエホバとエホバによる十戒を知っており、それ故、他の名前や他の属性を持った神は邪神であることを知っていたのである。

自分の知っているモノ以外が全て邪だと信じるのは、凄まじく危険。そう信じたが最後、他のモノ一切は頭に入ってこない。

様々な思想や神がある中で、最初に巡り知ったものが聖であるという偶然。そりゃ無い無い。その信じたい偶然を、「神の導きでー」とか言っているから騙されちゃう。

「いろいろ試した結果、これしかないと思いました」と言っている奴も大して変わらない。その思考状態で一択、聖を選びとれるわけがない。一長一短あるけど暫定ランキングで一位はこれ。というのが正しい。

今の決断は今の段階においてベストというだけ。順位はいつでも入れ替わる。

邪悪なモノを見極めるには・・・

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