ものみの塔の脅迫
『良心の危機』第8章「正当化と脅迫」。本章も、ものみの塔本からの引用が多く読み進めるのが苦痛。基本的には前章と同じく、もはや伝統芸と化したものみの塔の予言ハズシの実態を、時を追いながら追求している。
ものみの塔の予言ハズシは伝統芸のごとくパターン化している。当初は断定的にイケイケで予言。しかし、その時が近づくと急ブレーキ。神の名を借りて断定した訳ではない、あくまで人間の見解なので間違うこともあると弱腰に。この繰り返し。
本章以降で強くなる傾向が信者に対する「脅迫」。信じられない者は、神の名を借りた組織に対する「忠誠心」が足りないと攻撃する。忠誠心が足りないとどうなるのか?待っているのは滅び。
誰もが無残に滅びたくはないので、信者たちはこの脅迫に従わざるを得ない。これがマインドコントロール。ものみの塔はマインドコントロールを用いてエホバの証人信者の思考・行動を操作する。こうして信者たちは思考・行動の自由をカルト塔協会に奪われる。
「終了した秘儀」からの「万民キャンペーン」
1917年ものみの塔発行の「終了した秘儀」という怪しげなタイトルの本では、1914年の予言ハズシに懲りず、危険思想の予言を連発。
「1920年秋の世界規模の大動乱」などが衝撃的な言葉で自信満々に語られたが、どれ一つ実現しなかった。
予言されていたキリスト教世界の「苦しみの発作」もなければキリスト教世界政府がくつがえされることもなく、教会の破壊もなければ何百万人もの教会員が殺戮されることもなく、また油そそがれた者たちが天に上げられることもなかった。
「終了した秘儀」での見事な予言全ハズシで、ものみの塔秘儀は終了することなく「万民キャンペーン」に続く。
「現存する万民は決して死することなし」と題された小冊子では
アブラハム、イサク、ヤコブを始めとする古の忠実な者たちが復活すること、そしてこれらの者がまず最初に復活することは動かぬ事実である
と明言している。しかも年代まで続けて書いている。
1925年には
死の状態から戻ってくる
復活し、完全に元通り生身の人間の姿に戻り、地の新しい秩序の、目に見える、合法的な代表者となる
さらに、誇大妄想的予言が自信満々に続く。
古い事物の体制、すなわちこれまでの世界はまさに終わりを迎えて消え去ってしまおうとしており、代わりに新しい体制がやって来ようとしている。そして1925年には、古の忠実なる者たちが復活して再建が開始される。現在地上に生きている何百万もの人たちが1925年にもまだ生きているであろう、と考えるのは理にかなっている。ということは、神の言葉に約束されていることに基づき、現存する万民は決して死することなし、という確実にして動かぬ結論に至らざるを得ないのである
であるそうなのだが、残念ながら、この当時の万民はほぼ全員お亡くなりになったはず。
ここまでの妄想を確信を持って宣べられるというのは、通常の精神では考えられない。精神に異常をきたしている。もしくは圧倒的な想像力欠如。誇大妄想癖。
しかし、後日になると神の名を借りた訳ではないとエクスキューズ。すると
多くの人が協会の年代預言に対して持っていた信頼が薄れつつあった。これを何とかしようとして協会本部がとった方法というのはこの協会の性質をよく示すもの
ここでマインドコントロール発動。ものみの塔は
以前にも増して従順さを要求するようになった。
「忠実にして智き僕」(これは当時ラッセル師に当てはまるものとされていた)の教えに対する「忠節」がスローガンであった。
疑いを持つ者は、信仰が足らないばかりか、自分の知恵に溺れており、傲慢で自惚れていて頑固であり、悪魔に道を誤らされて主を拒否する罪を犯していると断定する。協会の言う年代に矛盾するような古代歴史学者の言い分に少しでも耳を傾けることは、「サタンの帝国の手先」を信用することだと決めつける
信者にしてみれば悪魔の手先扱いされてはたまらない。イコール滅びであるから。すると、予言の非実現という論点から、組織(もしくは開祖ラッセルという人)に対する信仰という話にすり替えられてしまう。
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