エホバの証人が試されるのは、神でなく組織への忠節

エホバの証人、権威構造の宗教に救いはない

『良心の危機』、第6章「二重基準と御都合主義」より。

マウライのエホバの証人は踏み絵を踏むのを許されずに迫害を受け、生死を脅かされる。その一方で、メキシコのエホバの証人は賄賂を支払って軍務修了の証明書を入手。予備軍に参入していた。

メキシコのエホバの証人組織の脱法はそれだけに留まらず、組織そのものが宗教組織でなく文化組織の体裁をとっていた。祈らず、謳わず、聖書を持ち歩かずという神の冒涜三原則。

それはメキシコで土地などの資産を追い求める手段として。神より財産という物質的合理主義。

ここまでが昨日の記事

なぜ、エホバの証人組織にはここまでの地域間格差があるのかというのが、本日の入り口。答えはエホバの証人が偽者のカルトだからなのだが、本書ではそれを明快に指摘している。

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キリスト教を規律の形で扱う権威構造よく現れる産物だと今の私は考えている。権威構造に関わる人たちは、それほど良心にやましさを感じることなく二重の基準があるのを見ていられるようになってしまう

エホバの証人は、宗教を隠れ蓑にした一部の人間の権威欲を満たすための組織。その欲望の犠牲になって死んだり、人生を圧倒的に損なったり。権威者にとってはそれは目に留める必要もないこと。

地域間格差に良心を痛める一般信者がいる一方で

「トップ」に立ち、いわゆる「象牙の塔」にいる人たちは不思議なほどにそういう感情とは無縁で、この二重基準が人々にもたらす影響には感じるところがない

地域に不公平があろうが、いかに全体をたぶらかし、上手く統治するか。それしか考えていない。個別の家族の不幸など一切関与しない。こんな宗教、いやカルトに救いがある訳がない。

組織の言うことは絶対!エホバの証人

エホバの証人を支配している統治体にとっては

二重の基準が存在していたわけではなく、たった一つの基準しかなかった。すなわち、何であれ、とにかく組織が決定して認めたことを行うということ

一貫して、エホバの証人の統治体は信者たちを統治することしか考えていない。こんなものに従う必要などない。

権威の座にある者が、自分たちは意見が分かれたままでも良いとしておきながら、他の人には一致を強要する。他の人がクリスチャンとしての良心の自由を行使するのは信用しないが、自分たちの決めたことには従わせる。自分たちには良心の自由を認め、違法行為や事実の歪曲なども許す。

統治体には何でも許されるが、一般信者どもは黙って言うことを聞け。そして、自分で何も考えるなと。組織のために何もかもを差し出し、時には運悪く罰ゲーム的な死を迎えろ。その時も文句ひとつ言わず、黙って死んでいけと。

それがエホバの証人。運悪く時と場所が違えれば、二度目の輸血が許されなかったり、政府に逆らうことを指示されて、結果、投獄されたり、家を焼かれて強姦されて殺されたり。それでも、組織の言うことは絶対と。

こんな不条理カルトに一矢報いたいと思いませんか?

『良心の危機』、エホバの証人(JW)の茶番の数々その2

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