子どもの命を差し出すものみの塔狂信者、エホバの証人

エホバの証人の狂信

まるで死神の如く、病院に集まってくるエホバの証人

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』を読了。

出血多量の重症で病院に運ばれたエホバの証人の少年。信者の両親がエホバの証人の信条により輸血を拒否。輸血すべきか否かの狭間で悩む父親に対し、病院に駆け付けた信者がこう言う。「第十一章 説得」より。

あなたの意思にお任せします。自分でお決めになって下さい。それが信仰というものなんです。そうやって強くなっていくんです

強くなっていくというより、マインドコントロールを深め、無自覚、無感覚になっていく。親・大人・保護者としての自覚を失い組織の言いなりになる。子を失う痛みすら薄れていく。

エホバの証人たちは、「輸血を拒否して子どもを死なすか否かは自分で決めろ」と言いつつ、大挙して病院に押しかけプレッシャーをかける。輸血をすれば、戒律違反になると。そして、組織の掟を破ればどうなるか分かっているな、と圧力をかける。

そして、エホバの証人の少年は亡くなった。

エホバの証人の信者たちが病院に駆け付けているのは、無論心配して、何らかの助けにならんとして。さらに、無輸血対応する病院への転院という目的も。

しかし、本事件の結果から鑑みると、エホバの証人たちは第一の目的として輸血を拒否させるために病院に駆け付けることになった。

エホバの証人が輸血が必要な状態になると、輸血を拒否して命を落とさせるために、信者たちがわらわらと病院に集まってくる。まるで死神。

親であって親ではないエホバの証人(JW)、親のような者

子供の命を差し出す狂信者、エホバの証人

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ラッキーナンバー666、元エホバの証人の数字の話

エホバの証人の陥る迷信

エホバの証人の親のような者の思考状態

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』の「第十一章 説得」より。

エホバの証人の少年が、信条による輸血拒否で亡くなった川崎事件。その事件が起きたのが昭和60年6月6日。この6が続く日について、エホバの証人が

あの日は不完全数の六が三つも続いたからな

と。だからこの事故が起こったとでも言うのだろうか。迷信に左右されるマインドコントロール信者の発言。そんなしょうもないことに心をとらわれているから、エホバの証人になって人生を棒に振ってしまう。

6というのは神の数字ラッキーセブンの7に対して、悪魔の数字。というエホバの証人設定。

6が3つ続く日付だからという理由でエホバの証人の少年が命を落としたというのだろうか。エホバの証人の少年が亡くなったのは、エホバの証人の教理のせいで輸血拒否したから。日付は関係ない。

そもそも、悪魔の数字の日にエホバの証人が死ぬなんて、悪魔のほうが神より力があるということ?

さらに、昭和60年和暦の6は、昭和天皇の即位に合わせた年。エホバの証人は人間を崇拝しないという設定なので、天皇に対する敬意は相当に薄い。その昭和天皇の年号の60年の6が効力満点の数字みたいに言っている時点で、まぬけすぎる矛盾。

エホバの証人の「体質」改善

666を避ける元エホバの証人

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親であって親ではないエホバの証人(JW)、親のような者

親のような者

エホバの証人の輸血拒否事件、あと一歩で救われた命

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』の「第十一章 説得」

エホバの証人の信条による輸血拒否。その結果、少年が死に至る様子が描かれた本章。事故直後から亡くなるまで。

エホバの証人の両親が病院に駆け付けるのが遅れていたら、無事に輸血が開始されていた。少年の被っていた帽子に自宅の電話番号が書いていなければ、エホバの証人の両親に連絡が入ることはなかった。

何かひとつでもボタンを掛け違えていたら、少年は生き残っていた。生きていたとすると、亡くなった少年は私の5才ほど年上。21世紀の今ここに、家庭があり、子どもがいてという可能性があった。

その可能性を打ち砕いたエホバの証人という宗教は、決して許されるべきではない。

親であって親ではないエホバの証人

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エホバの証人道、孤独と嫉妬心を刺激され堕ちていく

孤独や嫉妬から堕ちるエホバの証人道

エホバの証人道に堕ちるのは、感情を刺激されるから

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』より。

通常の思考順序、手順を経由すれば、エホバの証人という奈落の底への一本道へ足を踏み入れることはない。しかし、ものみの塔には通常手続きをすっ飛ばしてエホバの証人という破滅の道を選択させる仕組みがある。

この辺は昨日の記事にて。

ターゲットの感情に訴え、理性を捨てさせる。恐怖、悲嘆、絶望、孤独を抱える人を甘い言葉でたらし込む。または、あえてそういう負の感情を持たせることで、エホバの証人という不条理な道へ跳ばせる。

エホバの証人に逃げなければならないほどの負の感情、その大半が家族にまつわるモノ。

家族を失った悲しみ、孤独、そこを突くのが復活というトンデモ教理だったり、エホバの証人コミュニティの疑似的な温もり。

さらに、家族をエホバの証人側の人質にとり、家族を失う恐怖心、家族の中での孤独感を覚えるように誘導する。

エホバの証人堕ち、最初は孤独と嫉妬から

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エホバの証人の子ども、初「割り当て」の日に流れる贖いの血

エホバの証人の罪に対する贖いとは

エホバの証人の子どもの初「割り当て」の持つ意味とは

昨日の記事で、エホバの証人の子どもにとって初めての「割り当て」が大きな意味を持つと書いた。その意味とは?

エホバの証人の割り当てとは何か?これは昨日の記事にて。

ズバリ、罪。

人前でカルトの講演を行うという罪。しかも、自分で入念に考え丹念に練習して臨む場。巧みな話術で人々をたぶらかす悪の所業。

本人には罪の意識などない。だからといって、カルト講話が敬虔な行いに転化されるわけはなく、罪は罪。

子どもの5分程度の幼稚な小噺など、誰もマジメに聴きはしない。それでも、子どもの真摯なひたむきな姿に心を動かされた人がいたら?今どきそんな純粋な人はいないのかも知れないが、私の子どもの頃は、そんなふうにしてエホバの証人になった信者がゴロゴロいた。カルトの広告塔としての罪。

壇上の少年が自分の子どもと似たような年齢で強く感情移入してしまったり、元々感情が動かされやすいタイプだったり。既にカルトの集会所に来ている時点で予備群ではある。騙される素養満点。

子どもが必死に割り当てを果たす姿に、心を動かされる大人。

他人の人生を狂わす罪。

エホバの証人の子どもにとって、初めての割り当ては、罪深い道への第一歩。

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』~偶然サバイバルした者の務め

エホバの証人の子ども、初割り当ての日に流れる贖いの血

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エホバの証人の割り当てとは?assignment?

亡くなったエホバの証人少年の初「割り当て」

エホバの証人川崎事件の少年と初めての「割り当て」

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』の「第十章 道」より。

エホバの証人の輸血拒否事件、川崎事件を扱った本書。被害者児童が亡くなったのは1985年6月6日。本書によると翌6月7日はこの少年の「初めての割り当て」だったとある。

エホバの証人の割り当てとは?

正式なエホバの証人になるには、段階を踏む必要がある。ここでいう正式というのは献身、バプテスマという儀式を受けること。この儀式を受けたエホバの証人は、組織内で「兄弟、姉妹」と呼ばれる。

亡くなった少年も、断固輸血拒否したその父親も献身しておらず、まだ「兄弟」ではなかった。この2人の事例からすると、エホバの証人のマインドコントロールの危険度合いは献身宣言の有無には関係しないようには見える。

しかし、エホバの証人の目指すところは、一旦はこの献身。

仲間内から「兄弟、姉妹」と呼ばれる、馴れ合いの疑似家族空間の仮想温もりがこのカルトの一端を支えている。私みたいにこの馴れ合い環境を気持ち悪いと思う者は、ズブズブ馴れ合い信者に比べれば、脱会へのハードルは低い。

自称「伝道」、エホバの証人のねずみ算的集客システム

エホバの証人のバプテスマとは

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エホバの証人の川崎事件、無垢の少年を殺したのは何か?

エホバの証人の輸血拒否

エホバの証人の少年は、なぜ死ななければならなかったのか?

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』の「第十章 道」。エホバの証人の川崎事件で、亡くなった児童が当日に走った道。そして、この宗教に堕ちる哀れな人々が歩む精神的な道。その二つの道を走破・考察する第十章。

被害者児童はなぜ死んだのか?それはエホバの証人の教理により輸血拒否したためなのだが、その前段、なぜ事故に遭ったのか?本章では、その詳細が明かされている。

夕方、少年は自転車で家を出た。行き先はエホバの証人の信者の家、目的はエホバの証人の宗教本研究のため。つまり、

当初からエホバの証人に関係しなければ、事故に遭うことは無かった。

エホバの証人の人命軽視

エホバの証人は、永遠の命を持った完全体に生まれ変わるという妄想を強く抱いている。そのため、現在の限りある不完全な命を、心の奥底では軽んじている。

エホバの証人による命の軽視傾向は普段は具現化されることはない。神より与えられた現生命を大事にせよ、という建前にはなっている。しかし、

川崎事件ではエホバの証人の人命軽視主義を、証明してあまりある悲劇の結末を迎えた。

エホバの証人、カトリックの病院はOKなのに輸血がNGな理由は?

エホバの証人の輸血拒否は生命に対する冒涜、生きて償わせるエホバの証人の穢れ

名ばかりの保護者、エホバの証人の親

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エホバの証人に対して愛を示す方法は、彼らを狂人として扱うこと

エホバの証人の命に関する要求には一切応じない

エホバの証人の化けの皮

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』から。

エホバの証人の親が輸血拒否したために児童が亡くなった川崎事件。第八章 医師。著者が治療に関係した医師5名に取材した内容。

医師たちに共通するのは当然救いたかったという思い。法の規制、医療のあり方、信仰の尊重、そういったものがごちゃごちゃになっている間に大病院で一人の子どもの命が失われた。

諸悪の根源は、目立ちたいから命がけで輸血拒否するように信者を扇動しているものみの塔。エホバの証人たちは、無根拠な輸血拒否教理のために不毛に死んでいる。

こんなカルトへの信仰が尊重される必要などないのだが、一般論ではそうもいかず、結果、無垢の子どもの命が永遠に奪われる結果になった。

本来雑多である宗教を、定義というかたちに押し込め、ブラックボックスの中に放り込んでしまったのではないだろうか。一歩踏み込んで、個々の宗教の内実を見る努力を、放棄してしまったのではないか。極端に言えば、彼の立場を徹底すると、宗教というカラを被っていれば、何をやってもいい

著者は一人の医師の深層心理をこのように指摘している。

宗教というカラを被っているカルトのエホバの証人。化けの皮を剥がせば、組織のためなら子ともに死をも強制する殺人集団。子どもや信者の自由意志を奪い食い物にする収奪の仕組み。

とはいえ、医師にここまでを求めるのは酷。出血多量で運ばれてきた死にかけの子ども。後で来た親は「何が何でも輸血はできません~」と言っている意味不明人。時間との戦いの中、その宗教の内実を見極めるなんてことはできない。

表面的に見れば、「子どもを殺してください~」と言っているも同じ。明らかにイカレているカルト集団。だからと言って、医師に何ができるというのか。法整備前のこの段階では宗教というカラを破ることはできなかった。

エホバの証人に対して愛を示す方法

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エホバの証人、カトリックの病院はOKなのに輸血がNGな理由は?

カトリック系の病院には行くのに輸血は拒否するエホバの証人

エホバの証人の矛盾、カトリック大嫌いなはずなのに

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』から。

エホバの証人の子どもが輸血拒否で亡くなった川崎事件。エホバの証人児童が亡くなった病院は聖マリアンナ医大病院。この

大学病院は、上空から見ると、見事な十字架をかたどっている

そうで、エホバの証人が目の敵にしているカトリックの権化みたいな建物。以前から気になっていたのだが、エホバの証人が大嫌いなカトリック系の病院で治療するのはエホバの証人的に問題ないのか?

輸血拒否で児童が死亡というセンセーショナルな点が論争の中心になるけれど、普段あんなにエホバの証人が攻撃している異教由来の医療にお世話になるというのはエホバの証人的に良いの?

緊急時だったので、エホバの証人とはいえ臨機応変に対応した。「そんな細かいことにこだわりはしないエホバの証人って素晴らしい~」と、本人たちは言うのだろうけど、では輸血は?細かいことにこだわって子どもを殺したのはどこのカルトですか?

輸血拒否が子どもの意思であろうとなかろうと、ものみの塔の罪は重い

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』~偶然サバイバルした者の務め

カトリックの病院はOKなのに、輸血がNGな理由は?

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エホバの証人は、医療に対する適切な判断能力を有さない

医療に関する適切な判断能力を持たないエホバの証人

恩を仇で返すエホバの証人

先日の記事で、エホバの証人が過失で血を食べたり、輸血された場合のうっかり鯨やうっかり輸血は許される、と書いた。エホバの証人の神エホバは存在しない架空神なので、エホバの証人組織の勝手な設定上、「うっかり輸血」は許される。

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』でもこの命がけの矛盾を指摘している。

この矛盾を知れば、強制輸血に踏み切る医者も出てくるのではないかと、本書では書かれている。(第5章 血)

しかし、

この後の最高裁の判例で、この国のエホバの証人にはどこまでも愚かになる権利が認められた。すなわち、輸血に関しての自己決定権。自ら死に至る自由。

命を救うため、エホバの証人に勝手に輸血すると、逆に訴えられて敗訴。野良犬にエサをやったら噛みつかれたとか、恵まれない人に施しをしたら家財を盗まれたといった不条理。恩を仇で返すエホバの証人。

日本人もこの判決当時に比べたら、賢くなったか?そうでないか?この古い意味不明な判例をひっくり返す時が来たのではないか?

エホバの証人、医療に対する判断能力なし

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