輸血拒否で、血迷っているエホバの証人
テレビ番組『テレメンタリー2023 輸血拒否誰がために・・・~エホバの子 信仰か虐待か~』を録画視聴。
先週の土曜日、早朝の放送だったのだが、土日は子供が家にいるために視聴できず、本日、月曜日の視聴となった。
エホバの証人系のテレビ番組は、我が家の子供に対しては、独自に自主R15規制をかけている。世界にこんな純粋悪が存在することを、まだ子供たちに知らす必要はない。
エホバの証人問題の子供に対する輸血拒否を中心とした番組構成。まずはエホバの証人とは
聖書の記述を厳格に守る教義
をもつ教団であると紹介される。ところが、ここに既に語弊がある。
正しくは、聖書の記述を曲解した教義を、厳格に守る教団。
聖書に「血を避けろ」とは書いてあるが、命を危険に晒してまで「輸血拒否しろ」なんてことは、ひとつも書いていない。
聖書大筋で見れば、血を避けることより、生命を尊ぶことが大事だと訴えているのではないか?私は元エホバの証人2世ではあるけれど、ほとんど聖書に興味がない。よって、聖書に関しては、断定的なことは書けないが。
キリストが死ぬ前に逡巡し祈ったことだけでも、命の貴重さは明らか。そもそも聖書全体に流れるエッセンスが「命粗末にしましょう」なら、宗教としての価値はない。
神の宇宙主権とか神の栄光とか、私にしてみればどうでもいい戯言なのだが、神に栄光を表したいのなら、まず栄光を与えてやる人間が生きていないと。死んだら何もできない。
そういった意味で、血を命より上位に置いているエホバの証人は、宗教としての体を成していない。カルト宗教ですらなく、単なる命無駄遣いカルト。
輸血拒否で命を危険に晒すエホバの証人は、まさに血迷っているだけ。よって、私の立場としては、エホバの証人の輸血拒否は、大人であれ子供であれ、信教の自由や愚行権が適用されるモノではない。命より重いモノなど、この世界にほとんどなく、血液などがそれにあたるわけがない。血なんか、単なる水分だぜ。
輸血拒否は殺人
番組内では、エホバの証人の輸血拒否で子供が亡くなった案件や、命を危険に晒した話が何件か出て来る。
あのとき手術をしていれば
と、取り返しがつかない時間を奪われた案件や、妹を亡くした話など。
番組の途中で思ったのは、助かる生命を輸血拒否で見殺しにするのは、
殺人なのでは?
ということ。
カルト宗教がテロを起こしたり、集団自殺したり、集団レイプしたら犯罪なのだが、輸血拒否信条で信者の命を落とさせるのと一体何が違うのか?そこに一線を引く必要はあるのか?
これは、過去の裁判の判例が足を引っ張っているから。エホバの証人に無理矢理輸血して、敗訴した判例がある。信教の自由が優先されちゃった嘆かわしい事例。
しかし、現在のエホバの証人は、輸血拒否以外にも体罰や忌避問題が問題視されている。しかも、教義の根幹は現体制の転覆を待ち望むというトンデモない危険集団。さらには、復活や永遠の命という、しょうもない世迷言で情弱信者をたぶらかしている。
エホバの証人は完全なるカルトで信教の自由に値しない、日本に不要というところまで、世論を醸成する。そうすれば、信教の自由を盾にした輸血拒否による無駄死にも、司法判断としてNoが下るのではないだろうか?
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