命の材料に過ぎない血液、人類の命あってこその宗教や神

安易なエホバの証人の容認は、彼らの救いにならない

昨日の記事の続き。テレビ番組『テレメンタリー2023 輸血拒否誰がために・・・~エホバの子 信仰か虐待か~』より。

エホバの証人が信じている事を否定しようという気はありません。

と、番組内でエホバの証人の輸血拒否被害者が話す。

元エホバの証人にはこういう人が多い。こういう風に、一見物分かりが良さそうに容認するから、「復活がー」と、子供を輸血拒否で殺そうとするエホバの証人が後を絶たない。

番組内では『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』の川崎事件も紹介された。この事件では、無垢の子供が親のエホバの証人による輸血拒否で殺されている。こういった行為は、間違いなく悪行なんだから、一切容認しちゃダメなんだ。

安易にエホバの証人の信仰を認めたりせず、「復活」とか「永遠のイノチ」なんてあり得ないのだから、完膚なきまでに議論して、信仰を叩き潰す(大概、逃げられちゃって終わるんだろうが)。

それは、エホバの証人にとって救いになる。彼らが目ざめれば、これ以上悪事に加担することも無くなる。輸血を拒否しなくて済むのなら、文字通り命が救われることにもなる。

子殺しの殺人宗教、エホバの証人

エホバの証人に対しては、容認や妥協ではなく宗教として見做さない。「復活ガー、輸血拒否ガー」と言ってたら、「はいはい、医療に関する正常な判断能力ないですねー」と強制輸血。

エホバの証人が投票を拒否するなら、その報いとして公共サービスの提供を止める。王国会館接収する。くらいにエホバの証人を叩き潰せる未来を作る。だって、

輸血拒否のエホバの証人は、子殺しの殺人宗教だよ。番組内で3人もエホバの証人の子供の死亡例が出てきた。一瞬たりとも、エホバの証人に容認の姿勢を見せてはならないんだ。

命があるから、神や宗教が存在できる

命より重いものなんて、そうそうない。あるとしても血液ではない。血より命の方が重いのは当たり前。命の材料である血を優先して、命を捨てるってあり得ない。

人の心の中にある信仰を他人が勝手に手を突っ込んで変えることはできない

これは、輸血拒否で患者を亡くした医師の言。確かに。手を突っ込むのは構わないが、変えられるかどうかは分からない。それならば、環境を変えるしかない。

エホバの証人を、宗教として認めなければ良い。「輸血拒否ガー」とか言い出したら、「えっ?バカなのー」と無視して輸血する。訴訟も受け付けない社会にする。

輸血すれば救える命を見殺しにする野蛮な社会で良いのか?信教の自由は、命があってこそ。宗教は人類の命に支えられている。人類が皆死んだら、宗教は無くなる。神も消える。まずは人類の命ありき、それからの神や宗教なんだ。


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