「雪だるま禁止」の先にあるのは、子どもの死だった―エホバの証人の命を奪う危険な構造

エホバの証人の教理が命を奪う構造

エホバの証人の子どもの「雪だるま禁止」は笑い話でも特殊事例でもない。統治体の思いつきが、命に関わる教理になる。その最たる例が「輸血拒否」。子どもが死んでも、誰も責任を取らない。それが“ふさわしさ”で支配される宗教の現実。

「雪だるま禁止」は特殊事例ではない

昨日までの記事で書いてきたように、エホバの証人の子どもが「雪だるまを作ることを禁じられる」というのは、単なる笑い話ではないし、特殊な家庭の一例でもない。

今日は「たかが雪だるま」では済まない、命に関わる構造の話へ。

「雪だるま禁止」を命じた「その親が特別に厳しかっただけ」という声もあるかも知れない。しかし、それは違う。むしろ、こうした無意味な“禁止”が生まれる背景には、エホバの証人という組織の構造的な問題が存在する。

エホバの証人の組織構造の場合、最高指導層である「統治体」の指示が、全世界の信者に波及し、誰も逆らえないという“上意下達”の支配体制がある。

統治体の一言で、世界が従う

最高指導者層の統治体が「雪だるま禁止」っておバカなことを言い出したら、信者全員が右向け右でその指示に従う。そこに個人の判断や常識は介在しない。

たとえ、それがどれだけバカバカしい内容であっても、「統治体がそう言ったから」という理由だけで、信者はその教えを受け入れる。

この構造が、単なる雪遊びの話で終わらない理由。 なぜなら、同じ構造が、命に関わる重大な問題にまで適用されてしまうから。

命を奪う「輸血拒否」という教理

エホバの証人の組織構造が命に関わる問題にまで及んでいるのが「輸血拒否」という教理。単なる思い付きの教理で、実際に死亡者まで出している。

聖書に「血を食べるな」と書かれている記述を、エホバの証人は「輸血もダメ」と解釈する。

しかし、その解釈は一義的ではない。当り前だが、まともなキリスト教徒は輸血を禁じないし、聖書の文脈から見ても、命を投げ捨ててまで輸血拒否を適用するのには無理がある。

それにもかかわらず、エホバの証人だけが「輸血=神への反逆」とみなす。

なぜか?

それは、エホバの証人の指導者層がそう決めたから。

思いつきの教理が命を奪う

統治体が「ダメ」と言えば、全信者が従う。たとえそれが自分の命を危険にさらすことであっても、あるいは自分の子どもが手術中に命を落とすリスクがあったとしても。

実際に、輸血を拒否したことで命を落とした信者や子どもたちが存在する。だが、誰も責任を取らない。

この構造こそが、エホバの証人の本質。 そして、「雪だるま禁止」は、この構造の“入口”にすぎない。

命を奪うような教理も、同じ仕組みで広まり、強制される。だからこそ、笑い話や、特殊事例だからという逃げ口上では済まされない。

明日は「雪だるま禁止」シリーズ最終回。私自身の体験を通して、「そこまで厳しくないエホバの証人親」でも、命に関わる判断を誤る現実を紹介。


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