新宗教と既成宗教の違いとは?
『芸能人と新宗教』、引き続き第二章。
新宗教と既成宗教とを区別する際に、比較的わかりやすい基準となるのが、在家集団であるかどうか
既成宗教には専門の神職が存在する。神主や僧侶、牧師など。この人たちは、当該宗教の専門家となり世俗の生活を捨てる。
しかし、新宗教にはこの専門の聖職者が存在しない。本書では新宗教の
教団の構成員はすべて俗人
であり、
新宗教は俗人によってのみ構成された在家教団である
と書いている。
ややこしい点が、在家教団の新宗教なのに出家者が山のようにいる点。本書では幸福の科学を例にとって説明している。エホバの証人など全く同じ。
幸福の科学のいう出家は、宗教活動に生活のすべてを捧げるというもの
この出家とは、エホバの証人でいうところの献身=バプテスマ。思うところあって、宗教活動に人生すべてを捧げる宣言をしてしまうという愚かな決断。
『芸能人と新宗教』~法の下の無法地帯、宗教法人の認証制度とは
お菓子の家教団に人生フルベット
21世紀の人生には多角的な目的を設定する必要がある。本業以外に副業をやってみたり、趣味の友人を持ったり、地域の活動に参加して知人を増やしたり。
なぜなら、価値観が高速で揺らぎ移り行く時代に、一つの専門領域だけに特化して、その分野が大幅に縮小したら自身の人生設計までもが転ぶ。それなのに、新宗教なんて怪しいモノに人生すべてを賭けるというのは狂気と言うほかない。
絶賛道に迷っているから宗教に手を出すハメになった。というか新宗教に絡めとられた迷える子羊。
道に迷ったヘンゼルとグレーテル状態なのに、目の前の一見美味しそうなお菓子の家教団に人生フルベット。魔女に弟子入りするようなモノ。お先真っ暗に決まっている。
在家のまま出家、その狙いは?
新宗教の出家者は
既成宗教のように、世俗の世界から離れ、出家者だけが一緒に生活するわけではありません。出家者といっても、生活は一般の信者と変わりません。
通常の神社や寺院、教会の場合、出家者はほんの一部の聖職者だけ。信者は一般の世俗の生活を送りつつ、余暇に宗教施設にやってくる。健全な宗教生活。
これが、新宗教になると信者全員が出家を要求される。当初は「幸せになれます、家族の問題が解決されます、病気が治ります」というような目先のお菓子で釣られる。ところが究極、要求されるのが献身や出家。
しかし、献身しようが出家しようが信者たちはほぼ在家のまま。一部の上層信者だけが宗教専門職となる。エホバの証人の場合は統治体とかベテルという本部施設住み職員。その他の信者は在家のまま世間に紛れ込む。
世間で何をしているかと言うと、宗教勧誘や世俗の金を稼ぎ宗教団体への献金。
在家のまま心は出家、すべてを宗教活動に捧げるつもりなので、世俗の仕事で稼いだいわば外貨を惜しみなく宗教団体へ献金してしまう。エホバの証人の場合は寄付と呼称しているがやっていることはまったく同じ。
やたらめったらと在家のままで出家や献身を促し、世俗の金を稼がせ献金(寄付)させる。出家信者をまるで工作員のように在家のまま一般社会に潜伏させ、信者の増殖を計る。それが新宗教のやり口。
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