同期入社のエホバの証人二世
私は生まれながらのエホバの証人2世で、14歳のときに自分の意志でエホバの証人をやめた。そして高校へ入学する。この学校を卒業したあと、偶然同じクラスにいたエホバの証人2世と同じ会社に新卒で入社することになった。
高校とその上級課程の計5年のあいだ同じクラスで、なおかつ同じ会社に新入社員として入社したのである。その同期のエホバの証人2世は3年ほどで会社を辞めてしまったのだが、彼の退社の折りに2人で飲みに行った。
しかし、結局エホバの証人のことは、そのときもそれ以降もそれ以前も全く話さず仕舞いだった。そしてこの時から15年以上ものあいだ、現在に至るまで音信不通。
エホバの証人であるとか、エホバの証人だったというカミングアウトや、その後の深い付き合い、そういった密接な人間関係がエホバの証人二世は何より苦手。
知っているけど知らないふりをしたり、見えているけど気付いていないふりをしたり、逆にうわべだけで上手く取り繕う人間関係に終始してしまう。
人畜無害なエホバの証人2世
結局、最後まで彼が現役のエホバの証人だったのか、元エホバの証人だったのか分からないままだった。エホバの証人でないような顔をして実社会に紛れ込んでいるエホバの証人2世は多く存在する。彼らは周囲に何の害も及ぼさない。
周囲にやたらめったらに布教活動を行ったりということはない。私なんかは、自分の信仰の証言をしろと子どもの頃よく言われたのだが、現在ではそんなことはなく、何食わぬ顔で存在しているエホバの証人が多い。
年賀状やお中元が来なかったり、冠婚葬祭の折にちょっとした不都合があったりという程度。こういう古い慣習を行う是非は、最近では個人的な感覚が優先されるようになった。一般的な若い世代にはエホバの証人は違和感なく溶け込む。
外国籍の生徒が多い学校では宗教に関しても寛容である。公共の施設にはイスラム教徒のための礼拝室が設置されている場所も増えてきている。宗教に対しても多様性が認められ、寛容さが示される社会になっている。
決して許されないエホバの証人の存在
だからエホバの証人の存在は許されるのだろうか?答えは否。エホバの証人たち一人一人の存在を許すか許さないかでなく、エホバの証人という宗教そのものとものみの塔協会の存在を許容してはならない。
根幹が腐っている偽宗教だから。欺瞞的な体質で無垢な信者を欺き、貴重な財産と時間、人生そのものを搾取する組織だから。
あなたから奪い取った寄付金と時間の上で、にんまりと笑って遊んで暮らしている巨悪が存在する。エホバの証人の上層部、統治体。これを見逃すことは出来ない。
また、時代がどれだけ変わろうとエホバの証人の子供が受ける傷の深さは変わらない。
学校側がいかに寛大であろうと、エホバの証人2世であるという他者と自分の決定的が違いが、誇りや個性でなく恥だと思った瞬間に、彼らは深い傷を負う。永遠につきまとう過剰な自意識が養われてしまう。
こらしめという体罰で受ける傷もエホバの証人2世の子供には重すぎる。時代がどれだけエホバの証人に寛容になろうと、エホバの証人親子にとって良好な関係は望めない。そこに暴力と教理の強制がある親子関係がまともである訳がない。
人生はいつでもやり直せる。エホバの証人をやめるという道を現役の信者たちは今すぐに模索し始めるべきだ。
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