エホバの証人親の子どもへの教育、すべて無意味な理由

エホバの証人2世に”ふさわしい”遊びとは

私はほぼ生まれながらにしてエホバの証人2世として育てられた。両親は狂信的な信者で、私は厳格にエホバの証人の教理を適用されて育てられた。

「ちょっと外に遊びに行きたい」と言っても、「今日はエホバの証人の集会があるからダメ」と制止される。一緒に遊ぶ友達がエホバの証人でない場合は、両親は良い顔をしない。エホバの証人の基準で”ふさわしくない”とされた場所や遊びもNG。

このふさわしい、ふさわしくないは、一応エホバの証人の基準を前提にしているのだが、親の主観が多いに入る。

エホバの証人の子どもは”模範的”でなければならないとされている。エホバの証人の規範だけでなく、世間的に見てもお利口でなければならない。

エホバの証人は、信者でない人々を”この世の人々”と呼んで、見下している。その”この世”の規範にすら外れているなんてことは、エホバの証人的には有り得ない。

エホバの証人の子どもは、エホバの証人基準を建前にした親の主観や、一般的な基準を圧倒的に引き上げたレベルで自由を制限される。それがエホバの証人の子どもにとっての、”ふさわしい”こととなる。

全てが無に帰するエホバの証人の親の教育

遊び盛りの子どもにとって、堂々と遊ぶ機会がたまにしかないというのは、耐えがたい苦痛。子どもは遊びで成長していくモノだから。

しかし、エホバの証人の親にとって、エホバの証人の布教活動や集会、家庭での宗教本討議の方が優先されるべきことだった。

両親は、私の遊びたいという欲求は悪魔サタンの誘惑だと決めつけていた。エホバの証人によるマインドコントロールの成果。

エホバの証人の集会中や布教活動中にぐずれば、懲らしめと称してお尻をしこたま叩かれる。両親の常軌を逸した行い。エホバの証人2世の子どもは地獄の日々を過ごす。私はエホバの証人の父に物を投げつけられたこともあった。

果たしてこの両親の教育方針が正しかったのか?彼らが振るった愛のムチは、私のわがままや悪事に対してのしつけの一環だったのか?それともエホバの証人の教理に乗っ取ったモノだったのか?

両親はエホバの証人のことを常に第一にしていた。私に対しての教育は、全て教団の教理にのっとったものだった。ならば全てが間違いだったということになる。

エホバの証人の教理が誤りであることは、現在の両親も認めるところ。根幹が覆った以上、両親の施してきた私への教育はすべて間違いだったことになる。エホバの証人の教理を第一にしていたのだから。

最優先にして言いなりになっていたモノが嘘・偽りだった。となると、行為のすべても過ち、無意味ということなる。過去に遡って、子供に対して行った教育活動の何もかもが無意味になるとは何とも虚しい話。

最後に残ったのは、両親の溢れんばかりの愛情だけ。これがあったから私はまだ救われた。親の活動・教育方針は全て間違っていたのだが、それでも、そこに愛はあった。これが無かったら、私は完全に道を踏み外していただろう。

偽神エホバの産物である崩壊家族


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