「だるまさんがころんだ」ができないエホバの証人の子ども

「だるまさんがころんだ」さえ禁止、エホバの証人の子ども

幼児教育を受けられない子どもたち

幼稚園児の息子を、幼稚園バスまで送っていったときのこと。

バスを待っている間、息子が幼稚園の友達と「だるまさんがころんだ」と言って遊びはじめた。なんだか古風な遊びをしているなと思ったのだが、ふと気付くと私は「だるまさんがころんだ」で遊んだ記憶がない。

おそらく私が幼稚園や保育園に行っていないからだろう。息子が通う幼稚園もそうなのだが、幼稚園や保育園では、季節に応じて子どもに伝統的な習慣や遊びを教える。

生まれながらにエホバの証人2世だった私は、親が必要ないと決めていたせいで、幼稚園や保育園といった幼児教育を受けていない。

私同様にほとんどのエホバの証人2世の子どもたちも幼児教育を受けない。教団が幼児教育を受けることを推奨しないから。

小学校からは義務教育なので、エホバの証人2世の子どもでもしぶしぶ通わされる。それ以下の年齢のあいだは、エホバの証人の伝道奉仕活動という布教活動に連れまわされる。

私が幼児だった頃は、この布教活動が激しく行われ、エホバの証人の特徴になっていた。文字通り、家から家へと周り、赤の他人の家の呼び鈴を鳴らしまくる。炎天下でも台風が来ても、大雪が降っても、この布教活動に連れ周された。

些細なことも禁じられる、エホバの証人の子ども

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エホバの証人親の子どもへの教育、すべて無意味な理由

すべてが無に帰するエホバの証人の親子関係

エホバの証人2世に”ふさわしい”遊びとは

私はほぼ生まれながらにしてエホバの証人2世として育てられた。両親は狂信的な信者で、私は厳格にエホバの証人の教理を適用されて育てられた。

「ちょっと外に遊びに行きたい」と言っても、「今日はエホバの証人の集会があるからダメ」と制止される。一緒に遊ぶ友達がエホバの証人でない場合は、両親は良い顔をしない。エホバの証人の基準で”ふさわしくない”とされた場所や遊びもNG。

このふさわしい、ふさわしくないは、一応エホバの証人の基準を前提にしているのだが、親の主観が多いに入る。

エホバの証人の子どもは”模範的”でなければならないとされている。エホバの証人の規範だけでなく、世間的に見てもお利口でなければならない。

エホバの証人は、信者でない人々を”この世の人々”と呼んで、見下している。その”この世”の規範にすら外れているなんてことは、エホバの証人的には有り得ない。

エホバの証人の子どもは、エホバの証人基準を建前にした親の主観や、一般的な基準を圧倒的に引き上げたレベルで自由を制限される。それがエホバの証人の子どもにとっての、”ふさわしい”こととなる。

全てが無に帰するエホバの証人の親の教育

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