エホバの証人のクリスマス
今日12月24日は日本中が浮かれるクリスマス。しかも日曜日で、家族や恋人と楽しく過ごそうとしている人たちがたくさんいる。しかしそうでもない人々もいる。エホバの証人の家族は相変わらず日曜日の朝の集会に出かけている。
そもそも、ものみの塔協会はクリスマスを祝うことを禁止している。クリスマスもサンタクロースも恋人との夜も、エホバの証人にとっては何の関係もない。いつも通りに日曜日の朝の集会、午後からは伝道活動に出るのである。
果たしてそれで本当に良いのだろうか?自分で考えて決めていることだからそれで良いとエホバの証人たちは答える。クリスマスは企業の経済戦略で、それに乗っかるだけ無駄なことだと言う。
しかしそれは本当に自分で考えたことなのか?単純にものみの塔協会の言いなりになっているだけなのではないか?経済戦略に乗っかってちょっとだけ浪費することの何が悪いのか?
ちょっとした浪費が永遠の記憶として身近な人との間に残る。安いものである。
エホバの証人2世の子どもに至ってはさらにむごい。クリスマス会に行きたくて仕方がないし、明日の朝はクリスマスプレゼントが欲しい。これは間違いない。私も子どもの頃はそうだった。楽しいことが嫌いな子供は存在しない。
ものみの塔協会や親の言いなりになってクリスマスを避けているだけ。親の顔色をうかがっているだけ。子供たちが自分で選択して決定したことではない。親がクリスマス会に行っても良いよとさえ言ってくれれば、どれだけ幸せだったか。
『ドアの向こうのカルト』~エホバの証人の作るケーキが不味い理由
エホバの証人がクリスマスのケーキを買って家へ帰ると
エホバの証人たちは、クリスマスは異端の偽りの儀式だからやってはダメなのだと言う。キリストは馬小屋で生まれたから、こんな寒い時期の生まれではないのだと言う。
いったいそれが何だというのだろう?クリスマスがキリストの生誕日だとか何だとかはどうでも良いのである。ただ理由をつけて騒げればそれで良いのだ。それが人々を惑わす経済戦略なのは間違いない。ならば浪費しすぎなければ良い。
王国会館の寄付箱に入れるお金を子供や家族へのクリスマスプレゼントに回せば良い。必ずそれは自分に返ってくる投資になる。家族との豊かな思い出は未来を明るくする。ブラックボックスの王国会館の寄付箱とは訳が違う。
今日は午後から自分の家族にクリスマスプレゼントかケーキを買って持って行ってみよう。最初は違和感を覚え照れくささもあるだろう。ひどい罪悪感に苛まれるかも知れない。しかし家族は驚くほど喜んでくれるはずだ。
多くを語らずとも良い。クリスマスプレゼントかケーキを渡すだけで話は通じる。エホバの証人として間違った人生をやり直す日として今日はベストな日なのだ。全ては自分がどうしたいのかどうするべきなのか、自分の頭で考えて決めるべき。
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