エホバの証人の親が優先すべきなのは、神でも永遠の命でもなく・・・

子を捨てても、自分の命を優先するエホバの証人

エホバの証人の世界では、教団から破門された人に対して街で会っても挨拶することすら許されない。エホバの証人の破門は排斥と呼ばれ、エホバの証人的村八分状態。重大戒律を破ったり、背教じみたことを口にすると排斥処分になる。

たとえ排斥されたとしても、排斥対象者が未成年だったり自立能力がない場合は、保護者が最低限の生活を保障をしなければならないことにはなっている。

さすがのエホバの証人とはいえ、この程度の常識はある。最低限の義務教育を受けさせること、衣食住など生命を維持するための保護は、子どもが排斥された後であっても、エホバの証人の親が行わなければならない。

しかし、それ以上の深い関わりを持つことは禁じられている。家族間の暖かなコミュニケーションは、排斥者がいるエホバの証人の家庭には存在しない。

しかし、私の両親は一人息子であった私に対して、私が排斥されていたとしても1人の親として独立するまで見届けてくれたような気がする。

私がエホバの証人をやめた後で、両親もエホバの証人をやめた。それを考えても、家族と宗教のどちらを上位に置くべきなのか、最後の最後でその正常な判断ができる人たちだったのかも知れない。

エホバの証人の幻想である永遠の命と、子どもとの絆、それを天秤にかけてみれば良い愛する子どものいない環境での永遠の命、そんなものに意味はない。子を捨ててまでも、自分の永遠の命を求める、というエゴイストな考え方は改めるべきだ

聖人と自分を等しいと、誤解しているエホバの証人

神への愛と、家族の愛とを量りにかければどうなるかと、エホバの証人ならば言い出すかも知れない。エホバへの畏れとも言える愛を優先させるべきではないかと。

アブラハムの話が聖書に出てくる。アブラハムは、「息子のイサクを犠牲に捧げよ」と神から要求された。その例に倣い、何が何でも神への信仰心を優先させるべきだと言うエホバの証人もいるだろう。

このような頭の固い考え方がエホバの証人的思考。

これはモノの例えなのだ。

あなたはアブラハムやイサク、ヤコブのようにキリストの祖先となり歴史に名を残す、選ばれた血統ではない。自分の小さな家族を守ることを優先させるべき一小市民

まず、家庭に愛が満ちていなければ、神への純粋な愛など抱けるはずがない。家族に愛情を示せない人が、見えない神に敬虔な愛情を示せるはずがない。

アブラハムとイサクの間には、正常で親密な親子の愛情関係と信頼関係があり、共通の意識として神への深い愛があった。聖者の世界。というか伝説。

日本の一般家庭にこんな敬虔は感情が生まれるはずがない。エホバの証人の1世信者から、2世信者へ押し付けたカルトへの妄信しかない。

結局、神はアブラハムとイサクを試しただけで、実際に命まで取りはしなかった。この試し方もどうかと思うのだが、神話の世界なので仕方がない。

エホバ「アブラハムさん~、息子をぶっ殺しなさーい」

自我と、親への愛情との境界で揺れ動いているエホバの証人2世を、排斥を理由に拒絶することは親子関係を決定的に切り裂くことになる。

エホバの証人をやめたいと考えている信者2世の子どもたちは、揺れ動きながらも、まだ親に対して愛を示し続けるべきか、どうか悩み続けている

そんな不憫な子どもと向き合い、子どもの意思を尊重すること、カルト信仰を押し付けないこと、それがエホバの証人の親のするべきこと。


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