エホバの証人親の間違った教育
私は、ほぼ生まれながらにエホバの証人2世として育てられた。
エホバの証人の子どもは、常に”模範的”であれと言われる。
誰に対して模範・手本となる行いをしなければならないのかと言うと、エホバの証人が”世の人”と蔑む一般人。子どもを礼儀正しく模範とすることで、エホバの証人の勧誘活動に役立てるため。
我が家もこのパターンで、エホバの証人の罠にはまった。私は活発で落ちつきのない子どもだった。私の母は「エホバの証人の勉強をしたら、子どもは皆お利口になりますよ」という、エホバの証人の口車に乗ってしまう。
そもそもお利口とは何だろうか?大人しく、長時間座っていられる子どもだけが素晴らしいのか?
子どもは腕白なくらいがちょうど良い、という発想が私の両親に無かったのだろうか?今さら何を言っても遅いのだが。一番悔やんでいるのは、本人たちだから。
また、エホバの証人の子どもは、世間の冷視線を和らげる役目をも担っている。輸血拒否で死をも厭わないカルト集団であるエホバの証人だが、子どもだけはお利口だと、一般の人々は見る。むしろ、私はカルトを強制されて可哀そうに、という視線を多く感じた。
私の家は両親ともに熱心なエホバの証人で、父は会衆の長老、母は正規開拓奉仕者と呼ばれるポジションだった。筋金入りの狂信一家というところ。
そのため、子どもの私も模範的であれと厳しくしつけられた。他の信者の子どもに対しても手本となれ、ということ。
こうなると、子どもは親の自尊心を満たすための道具になる。自分の家の子どもの方がお利口だとか。我が子は手を挙げて注解した、演壇に立って話をした、バプテスマを受けた、ベテルに入ったという隠れ自慢大会。
子どもは親の作品ではない。一個の独立した人格。長所を発見して、延ばす教育をするべき。エホバの証人という邪悪な枠にハメるなど、言語道断。
そもそも、初めからこんな理屈が通る人々はカルトに堕ちないので、エホバの証人の毒親には別のアプローチが必要。
もっと即物的な話の方が通じそう。例えば、永遠の楽園って暇そうじゃないですか?楽園での永遠の命というのがウソで、人生一度きりなら取り返しがつきませんよ、など。
エホバの証人の子どもにとって日常生活すべてが苦痛
子どもの私は、エホバの証人として模範的であるために、下らない宗教話をじっと座って大人しく聞いていなければならなかった。その集会は週に三度もある。
集会の前後、子どもだけで遊ぶような時間でも、他のエホバの証人の子どもの模範となるように、と言われる。
屋外を連れまわされるエホバの証人の布教活動や、他人の家へ上がりこんで行われる聖書研究のときも、常に大人しく模範的な子どもでいなければならなかった。
子どもの頃の私は、一瞬たりとも気を休められず、息を抜けなかった。四六時中エホバの証人2世として模範的でなければならなかった。
子どもは、はしゃぎたい時に大はしゃぎさせるべき。葬式だとか、何だとかで絶対に騒いではダメなときも存在する。そのときは説明するか、一緒に退席すれば良い。 それくらいは子どもでも何となく判断できるようになる。しかし、
毎日が子どもらしく振舞えないとなると、活発な子どもだった私にとって、もはや日常生活すべてが強烈なストレスだった。
“エホバの証人の子どもの日常は生き地獄、模範的であれというストレス” への1件の返信