恥神エホバ、本当の自分とエホバの証人2世である自分

エホバの証人に試練を課しているのは「ものみの塔協会」

1993年1月にアメリカ合衆国の大統領が改選された。私は小学校6年生だったのだが、大統領選挙のニュースに戦々恐々としていた。

当時、エホバの証人の世界本部はニューヨークのブルックリンにあった。大統領の改選によりエホバの証人への迫害が始まるのではないか。そんなことを子どもながらに恐れていたのを思い出す。被害妄想も甚だしい。

私は生まれながらのエホバの証人信者だった。親ゆえのいわゆる宗教2世。

私は、エホバの証人のことを世間から爪弾きにされている弱い存在であると感じていた。私は信仰を守るというより、無難に何事も無く生きていければと願っている子どもだった。

しかし、エホバの証人の子どもにとってそれは許されない。エホバの証人2世には、簡単に乗り越えられるのだが、自尊心は極めて傷つくという微妙な試練が連続してやって来る。

信仰を試すような機会が、あえてものみの塔の教理には含まれている。それを乗り越えることでエホバの証人組織への未練と執着が強まり、ますます脱会しにくくなる

これがエホバの証人が組織依存してしまう原因の一つ。自ら招いた微妙な試練を、苦労して乗り越える。試練を与えてくると思い込んでいる世界を敵視する。そして、教団の中に逃げ込む。

考えてみれば、信教の自由と個人の尊厳が保障されている日本では、エホバの証人に与えられる試練はそれほど困難なものではない。逆に難しいのは、エホバの証人を思い切ってやめること。

これは深いマインドコントロール状態に無い場合でも同じ。エホバの証人の教理や組織の方針に疑問を感じていても、今までに払った犠牲と時間が惜しまれる。教団外にまともな人間関係を築いてこなかったことも影響する。

変化を恐れるエホバの証人たちは、生ぬるい馴れ合いのエホバの証人の王国会館に通い続けてしまう。

信者たちを組織に縛り付けるために、ものみの塔は、あえてエホバの証人にしょうもない試練を課している。

エホバの証人の王国会館という虚構の世界の架空の友人

エホバの証人の王国会館に流行る病

恥の象徴であるエホバ

「エホバの証人なのでクリスマスや節分をできません」というのは、極めて簡単なこと。日本では個人の自由、信教の自由か保障されているから。

しかし、エホバの証人2世は、そういった禁止事項を自分の意思とは関係なく強制される。

幼い子どもの頃から思春期、青年期に至るまでの間、宗教色のあるイベント一切に参加することが出来ない。しかも宗教上の理由でというデリケートな状況。これはエホバの証人の子どもの心を深く傷つけていく。

私の最初の傷つきは、近所の友達がお祭りに誘いに来てくれたとき。理由も分からず母親に遮られた。近所の友達が着ていた真新しい青いハッピが、エホバからの自由の象徴に見えた。

この傷つきが小学校、中学校と年齢を増すにつれて苛酷になっていく。

何でもやってみたい欲求を持つ本来の自分と、エホバの証人2世である自分とがズレているように感じられた。本当の自分とは違う醜い自分が、周囲の奇異の目にさらされることが恐ろしかった。それは恐怖であり恥だった。まさにエホバは私にとって恥だった。

私にとって、今でもエホバの証人2世だった過去は人生の恥部であり、汚点。しかし、現在の私は、この恥神エホバを何とか消化しないと前進することはできないと、考え始めている。


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