ものみの塔の権威はB.C607年から
ものみの塔協会とエホバの証人の統治体、その権威付けの根拠となる1914年の教理について。昨日の記事でものみの塔協会の1914年への論理飛躍について書いた。
聖書の中でバラバラに書いてある「七つの時」「異邦人の時」「終わりの時」を全部くっつけて、終わりの日の預言だとした。これが最初の三段跳び。
そして「七つの時」は2520年を表すと断定したもうひとっ飛び。
これだけではまだ1914年に届かない。1914年の2520年前の「紀元前607年」、起点の年であるとしたのが最後のハイジャンプ。
ものみの塔協会の論理ハイジャンプ
ところが、この紀元前607年がくせ者で、エルサレムの滅亡は「紀元前607年」ではないというのが考古学界の見識。実際は587年と考えられている。
ここで最後の論理ハイジャンプ。「考古学は信用ならんので、エルサレムの陥落は紀元前607年」これがものみの塔協会の主張。そのくせ、都合の良い年代解釈には考古学の見解を引用している。
この点は今回参考にしたJW解約資料5弾「1914年と終わりの日」に詳しい。
独自解釈に独自解釈をつないだ「七つの異邦人の終わりの時」からの「2520年」。さらに起点の年となる紀元前607年が、どうにもこうにも証拠のないあてずっぽ。
つまり、ものみの塔協会の1914年の教理そのものがインチキ。であればエホバの証人が1919年に聖別されたなんてこともあり得ない。ただの自己主張。「あっそうなんですね。素晴らしいですね」と聞き流しておけばいいレベル。
紀元前607年をエルサレム陥落の年にしたいのはエホバの証人だけで、考古学者を除く一般人類にとってはどうでも良い。しかし、ここが肝のエホバの証人はエルサレム陥落をB.C607年にしたい。
wikipediaのバビロン捕囚の記事などは、ちょっと油断すると最初の捕囚が紀元前607年に書き換わっている。洗脳の深いエホバの証人が書き換えているに違いない。こちらも587年に書き直してみるものの、いつの間にか607年に戻っていてイタチごっこ。
587年だろうが607年だろうが、大昔の話でどうでも良い数字の話なのだが、ネットの情報を鵜呑みにするのは怖い。悪意あるものみの塔協会の偽情報を読まされることになる。(wikipediaを書きなおしているエホバの証人は良かれと思っているのだろうが、これがなおさら厄介)
とはいえ、BC607年にこだわる必要もなく、もはやBC587年の方がものみの塔協会にとって都合が良いのではないだろうか?この点はまた明日。
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