エホバの証人の認知不協和
エホバの証人2世の論考集『エビのしっぽ』より。
エホバの証人の年代計算の矛盾を指摘すると必ず言うのが「我々は時に信仰を持っているのではない」
これは
認知不協和
(自分の信念と現実が異なると現実の認知を変える)
であるという。
喫煙者が、タバコで肺ガンになるリスクより、禁煙のストレスの方が大きいと言うのと一緒。ストレスで余命宣告はされないのに、現実の見え方を捻じ曲げている。
人は、自分の見たいもの、自分にとって都合の良いものを見ようとする。そして、現実と異なる見方をする。当たり障りの少ない方へ、変化を生まない方へ、現状を変えない方向へと。
エホバの証人が幾度の預言ハズレや、ものみの塔組織の不義、信者の愛の欠如といった場面に遭遇しても、信仰を捨てないのは、この人間の性質が影響している。
このように、エホバの証人の不思議は、洗脳とかマインドコントロールといった大仰な言葉を使わなくても説明できるというのが、この本の筆者の一貫した主張。
エホバの証人の「時に信仰を持たない」愚かさ
エホバの証人の言う時とは、「終わりの日」。ものみの塔が預言する終末ハルマゲドンの到来する時。
その終わりの時は、当初は1914年だった。その後、随時延長され、1975年、1914年を見た世代、1914年の時代背景を共有した世代・・・と伸びまくっている。
その間に数多のエホバの証人が寿命を迎え、人生を無駄遣いして死んでいった。この結果から、他の新興宗教同様にものみの塔は偽預言者であり、エホバの証人は搾取されているだけ、そして現在が「終わりの日」ではないのは明らか。
ところが、預言ハズレで裏切られた当のエホバの証人の方は、
「時に信仰を持っているのではない」となる。
今が終わりの日だからと、財産を投げ出し、学校教育も仕事も放りだしてエホバの証人活動に全てを費やしたのに、預言がハズレると
「時に信仰を持っているのではない」となる。
それではエホバの証人は時に信仰を持たずして、いったい何に信仰を持っているというのか?.
「エホバという神」だという答え。しかし、実状はそのエホバという偽神を掲げて「終わりの日」を預言しているのものみの塔、に対する信仰。妄信。思い込み。
ものみの塔の根幹、主体、存在意義は、現在が「終わりの日」であるということ。現在が「終わりの日」ではなくて、時に信仰を持てないのであれば、ものみの塔やエホバという架空神にも信仰が持てるはずもないのだが。
「時の信仰」を捨て、「空箱信仰」するエホバの証人
本書ではもう少し違うアプローチで「時に信仰を持たない」愚かさを指摘している。
時に信仰を持たないというのなら
①王国を宣べ伝える
②今は終わりの日
③間も無くハルマゲドンが来る。
これらを信じなくなって(信仰の中心にしなくなって)初めて「時に信仰を持っていない」って言う
①ものみの塔が自らの存在意義として主張しているのが、神の主権を宣べ伝えるということ。ところが、これは神の王国が天で設立されているという前提。
「時の信仰」を捨てるということは、天の王国が、今現在成立していなくてもエホバの証人を続けるということになる。それで、果たして何を宣べ伝えるの?
②③はものみの塔が終末恐怖ビジネスを骨格としている以上、終末の「時の信仰」を捨てると、ものみの塔は空っぽになる。
エホバの証人が「時に信仰を持っていない」というのは、空箱に何にも入っていないと自ら宣言した上で、それでも空箱を、命や家族や未来より大事と言っているに等しい。