エホバの証人2世の子どもが体感する初めての違和感
私は1980年代中頃に1度目の引越しをする。ちょうど小学校に入る年。エホバの証人の会衆は変わらず、小学校が隣の校区へ変わるだけ。
エホバの証人2世の子どもは、幼稚園や保育園といった幼児教育を受けないケースがほとんど。そのため、仲の良い友達と別れるというようなことは無かった。そもそも、エホバの証人2世の幼児にとっては教団の世界がほぼすべて。
引越しした先で、小学校に入学した私は、初めてエホバの証人以外の社会に触れることになった。
この引越しの前に、同じアパートに住んでいた男の子が、地元のお祭りに行こうと誘いに来てくれたことがあった。その男の子は、真新しい”はっぴ”を着ていて、それがとてもまぶしかった。
40年近く前のことなのに、私はこの出来事をよく覚えている。
お祭りは、突き詰めると八百万の神々に対する感謝の行事。よって異教のものであるという理由で、エホバの証人にとっては禁止事項。私は、エホバの証人の母親に遮られてお祭りに行くことはできなかった。
この時に体感した、エホバの証人ゆえの小さな違和感を、私は小学校生活では常に味わうことになる。
この違和感を覚えたときには、すでに遅すぎた。両親は後戻りできるような健全な思考状態にない。完全にものみの塔協会のマインドコントロール下にあった。
子どもの私が何を言っても始まらない。逆らおうものなら、待っているのは懲らしめと呼ばれる体罰。
エホバの証人2世の子どもが送る辛い小学校生活
日本の小学校に通う子どもにとって、他人とちょっとでも違うというのは大問題。今でこそ、多様性を認めようと言われる時代になったが、私の子どもの頃、1980年~90年代の日本の小学校には、そんな空気は一切なかった。
クラス中が総中流階級。全員日本人。全家庭に両親がいて、片親家庭はゼロ。そして全家庭が核家族。郊外都市の小学校は、そんな画一的な家庭環境だった。
クラスメイトより、ちょっと優れている劣っている、ちょっと金持ち、貧乏、ちょっと頭が良い悪い。それだけでもいじめのターゲットになりかねない。
個性を一切認めない環境が悪いのだが、子どもの方ではそんな環境を変えようがない。
個性が認められない日本の小学校において、変な宗教に入っていて違和感ありまくりの子どもというのは、最悪の状況。
簡単にいじめの対象になる。自分は他人と圧倒的に違う、という恥の感情を常に抱かざるを得ない。実は他人と違うのは恥でも何でもないのだが、日本の小学校ではそれを教えない。逆に矯正される。
常に恥の感情を抱えたまま生活すると、自尊心を大きく損なって成長することになる。大人になったエホバの証人2世が、、親や他人に依存したり、自殺したりという原因は、既に子どもの頃に仕込まれている。
本人の頑張りや意欲、才能以外で、子どもが悪目立ちすることが無いよう、親は注意を払ってやらねばならない。少なくとも1980年代~90年代の日本の小学校に通う子どもにとっては、そういう配慮が必要だった。子どもの心は微妙で繊細。
しかし、エホバの証人の親にはそういった配慮は一切ない。自分たちは神に仕える特別な者。特別な者なら目立つのも当然。「目立って模範的でいなさい」という無配慮。デリカシーの欠如。子どもの心よりものみの塔を優先させる態度。
こうして、エホバの証人2世信者は暗黒の子ども時代を送ることになる。
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