争いごとの好きなエホバの証人

エホバの証人2世という偶像

ものみの塔協会は自身が使用している新世界訳聖書の

“彼らはもはや戦いを学ばない”

という一節を信者のエホバの証人に文字通りに厳格に適用させている。そのためエホバの証人たちは兵役を拒否学校の武道の授業も拒否するのである。

世間でも有名になった日本のエホバの証人2世の事件がある。高等専門学校に通う数人のエホバの証人2世が剣道の授業の受講を拒否したのである。実際には全く授業に参加しなかった訳ではなく見学してレポートを出した。しかし結局は単位を貰えず進級出来ないという事態に陥る。中にはそのまま退学することになったエホバの証人2世もいた。

そのエホバの証人2世は自らの信仰を守るために学歴を投げ打ったということで教団内では聖人扱いされ伝説のようになっている。この神戸高専剣道実技拒否事件は最高裁に至るまでの裁判沙汰になった。ものみの塔協会は彼らの信仰心の篤さを組織の内部に宣伝し、試練に耐えて信仰を守り抜いた素晴らしいエホバの証人2世という偶像を造り上げたのである。





二面的性格を持つものみの塔協会

この神戸高専剣道実技拒否事件は最高裁で信教の自由が認められエホバの証人側の勝訴となった。この判例はエホバの証人に有利な事例としてものみの塔協会によって宣伝されている。エホバの証人2世はこれを盾にして武道の授業を拒否している。学校側としても裁判沙汰になるのは望まない上に既に判例が出てしまっているのでエホバの証人側の要求を飲まざるを得ないのである。

係争を徹底的に行い自らの要求をゴリ押しするというのは果たしてエホバの証人という理想のキリスト教徒に”ふさわしい”行為だろうか?これに対して、我々は迫害や試練に対しては毅然とした態度で臨みますというのがエホバの証人の模範解答だろう。毅然とした態度というのは便利な言葉だが結局は大論争を巻き起こして世間を騒がせているだけだ。

裁判での係争という争いは自らが決して学ばないと誓っている戦いと何が違うのか?相手の弱みを攻める周到さが裁判には必要である。その係争相手に愛情を持ち続けることは出来るのか?エホバの証人は自らの利益を守るために司法という”この世”の上位の権威にすがっている。

普段は軽んじている”この世”の権威に希望を託すというのはエホバの証人のご都合主義を象徴している事例である。エホバの証人は戦いを学ばない割には裁判できっちり勝訴を勝ち取るという勝負強さを見せる。論争好きなエホバの証人は普段の鬱憤をこういった場ではらしているのだ。


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