ものみの塔を糾弾すべき理由
昨日の記事で、エホバの証人脱会者は皆が口を閉ざすと書いた。私も一般生活ではエホバの証人二世という出自を明らかにしていない。バレたらバレたで良いのだが、決して自慢できる話ではないので黙っている。
エホバの証人を円満に辞めたという人は存在しない。このカルトからは、円満卒業という形での脱会はあり得ない。辞めるときに相当な軋轢を生むからだ。それがカルト。
エホバの証人を辞めた人でエホバの証人組織、宗教としてのエホバの証人に好意的な印象を持っている人は、まだものみの塔のマインドコントロール下にある。それは本質的な意味で辞めたとは言えない。
本質的にエホバの証人を辞めることができた人で、エホバの証人組織に好感を持っている人はいない。何らかの疑念や不満、違和感をもれなく抱いている。「エホバの証人がよくないものである」という認識は多かれ少なかれ持っている。
であるならば、やはりエホバの証人を糾弾すべき。「よくないもの」なのだから。
やっとこさサバイバルして今も傷が癒えない人だらけだろうし、他人がどうしようが私が口出しすることではない。よって、他のサバイバーがどうしようが私には関係ない。だから、次の言葉は私自身への叱咤として。
良くないカルトに取り込まれている哀れで愚かな者を放っておくというのは、その邪悪空間からの生還者としていかなるものか。
だから、私は、恨み、怒りといった負のエネルギーを義憤に昇華させて、ものみの塔と戦いたい。
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