私のトップシークレット
私の20代の頃の話。付き合っていた彼女に、私が過去にエホバの証人であったことが発覚し、指摘される。それが直接的原因だったのかは分からないが、この彼女とは、しばらくして別れることになった。
私が元エホバの証人2世であるということは、40才になった今でも誰にも話したくない事実。私にとって最も触れられたくない、最低な話題。
罪の意識があったり、後ろめたいところがあるわけではない。私がカルトにだまされたのではなく、生まれながら、親ゆえにエホバの証人2世として育てられただけ。被害者ではある。
私は14才のときに、自分の意志できっぱりと足を洗っている。親の洗脳を受け続けた少年期を、自分の考えで否定した。この宗教のせいで一家は離散しているけど、そんな家庭はどこにでもある。それでも、
エホバの証人2世だったという過去には触れられたくない。自ら進んで、誰かにこの秘密を話すなんてこともまずない。
エホバの証人2世の子どもの苦しみ
エホバの証人の教理ゆえに、季節ごとの行事や、武道の授業に参加できなかった。教室の端で、クリスマス会やら節分やら柔道の授業を眺めていた。このときの私を、誰にも知られたくない。当時の気持ちに戻りたくない。
消滅した親子の時間と空間、家庭を失ったときの傷、奇異の視線を浴び続けた子どもの頃の記憶、見知らぬ家の呼び鈴をボランティアと称して鳴らすときの恐怖心、存在すらしない神に対する無数の罪悪感。
神エホバはいないという、ものみの塔の嘘に気付いたときの脱力感、ずっと洗脳されていたのかという無力感、こんな簡単な嘘に今まで気付けなかったのかという無能さ、人生の全てを真剣に必死にものみの塔に捧げてきた両親への哀れみ。
そんなモノを、私の心から掘り起こされたくない。
今でも数日に一度は、エホバの証人だった頃の夢を見る。目が覚めて、エホバの証人でない自分であることに気付き、ホッとする。エホバの証人だった過去は、心の中の薄い膜1枚に覆われた部分に隠してある。
隠しても隠し切れずに表出してくるほど大きな過去の傷。消化不良で忘れきれないモノを、今さら引っ張り出されたくない。40才になった今でも同じ。25年経った今でも癒えないほど、エホバという傷は深い。
元エホバの証人2世の宿命的ミッション
それでも、こうして自ら過去の傷を掘り起こしているのは、前に進むため。やるべきことをやるため。この世からエホバの証人を消滅させるため。エホバの証人として、人生を無為に過ごす人々を減らすため。
子どもの頃の辛い体験は、ものみの塔を消滅させるという、私の目的のためにあったのだと、今では考えている。
エホバの証人の人間関係が無ければ生きていけないという人が多くいる。だからやめられないと。しかし、そのエホバの証人の人間関係は偽善。あなたがエホバの証人であるならば愛される、という限定的なもの。
そんな条件付き愛情は必要ない。捨て去って孤独を感じろ。その孤独は自由で自分らしく素晴らしいし、かつ寂しく悲惨で、自らの過去の代償でもある。その孤独を嚙み締めるべき。それが人生。生きるだけの価値は十分ある。
あなたがエホバの証人として活動することで、教団の財布が潤う。そしてさらにエホバの証人被害者が増す。これを私は見逃せない。許すことができない。放っておくことができない。
単なる私怨から始めたことだが、エホバの証人を限りなく少なくし、ものみの塔を消滅させることが、私の宿命だと今では思っている。そのために、私は幼年期・少年期をものみの塔に奪われた。
“元エホバの証人2世の宿命、この世から「ものみの塔」を消滅せよ” への1件の返信