元エホバの証人(JW)2世、不吉な薄暗い部屋での最初の記憶

元エホバの証人2世の親との確執 

私は生まれながらのエホバの証人(通称JW)2世として、両親から厳格に教団の戒律を押し付けられて成長した。しかし、そのことで両親を全く恨んでいない。両親は、エホバの証人組織に騙されただけだったから。

両親からは、「懲らしめ」と称してエホバの証人風の体罰を繰り返し受けた。エホバの証人のわけの解らない教理を押し付けられ、全く自由のないまま14才まで育てられた。

エホバの証人の戒律には禁止事項が多い。エホバの証人2世は、常に周囲の子供との違いを意識せざるを得ない。一般の子供の自由さと自身の不遇を比較し、辛い子供時代を送る。

それでも、私は両親に対して感謝こそすれ、恨みに思ったことはない。とはいえ、両親のエホバの証人になるという間違った選択をした事実が消えることはない。

エホバの証人をやめると決意し、実際にやめようとしていた14才のときに、私は両親と激しくぶつかった。両親が信じるエホバの証人の教理に対し徹底的に暴言を吐き、論破した。

人生の意義はその短さにあり、その短期間を自身の意思で駆け抜ける必要がある。両親が疑いもしない神エホバすら、私にとっては自身のエゴで世界を滅ぼそうとする悪の化身だった

14才の私に続き、父→母の順でエホバの証人をやめたのだが、組織から脱退の家庭は崩壊した。

エホバの証人の子供とは

エホバの証人に関わったことで私の一家は離散。しかし、最初に父をエホバの証人の世界に引きずり込んだのは私だった。

当初は母親から。物心つく前の幼い私を連れて、母親がエホバの証人の王国会館に通い始めた。これは40年ほど前、1980年代前半。エホバの証人の王国会館とは集会場のこと。当時は粗末なプレハブ小屋のような建物だった。

エホバの証人の王国会館に連れて行かれた私は、集会中に静かに座っていることができなかった。活発というかやんちゃだった幼い私にとって、1時間から2時間もわけの分からないエホバの証人の話を聞いていることなど不可能だった。

幼い私の落ち着きの無さは、私の特徴であり個性だった。ところが、エホバの証人の王国会館に連行されている子供たちは、2時間の集会の間、大人しく座っていることができる。

中にはノートをとりながら講演者のありがたい講演を聞いている子供も。さらに手を上げて発表するような子供まで。エホバの証人の王国会館に連れてこられている子供に個性は一切認められず、大人しく座っているのが単純に正とされていた。

危険なカルト、エホバの証人に堕ちた責任の所在は

エホバの証人の王国会館での、私のソワソワは、幼いながらにカルトに関わることの危険性をアピールしていた。本能が拒否していた。ところが、私のささやかな抵抗は母親に一切認められなかった。

とある日曜の午後、母は、王国会館で大人しく座っていられない私に怒りを爆発させた。午前中の王国会館での私の態度がひどかったから。日曜で仕事が休みだった父も交えて、私は散々に怒られた。

不吉な薄曇りの日曜の午後。あの薄暗い部屋での出来事が、私の生まれてからの最初の記憶になっている。母親の怒りから逃げるために言った、私の

「お父さんも一緒に来てくれれば、大人しく出来るかも」

この一言で父の運命までも変わってしまった。父も翌週からエホバの証人の王国会館に通い始めることになった。

しかし、この責任を私は全く感じていない。母親が最初に偽りの”真理”を聞き、エホバの証人を家に招き上げてしまった。しかし、その母を責める気持ちも全くない。母を騙し、教団への献身に導いたT氏、彼女もまた被害者。

献身とはエホバの証人でいうところの洗礼、バプテスマと呼ばれる。身も心も全て教団の捧げるという誓いを立てること。後に父もこのバプテスマを受ける。

母親の聖書研究の司会者だったT氏、既に絶命している。死んでいった人を悪く言いたくないのだが、このT氏が我が家に来なければ。まさに不幸の伝道者。

まさに「不幸の伝道者」であるエホバの証人

カルト被害者の死~エホバの証人信者の葬式と墓や遺骨について

しかし、誰かが悪いという問題ではない。悪いのは組織としてのエホバの証人。既に目的もなく、肥大化した組織の維持と、ほんの一部の上層部のエゴと欲望のための組織。

元信者にとって大事なのは、エホバの証人を脱会した後のこと。今を含めた、これからをいかに生きるかということ。信者個々人を恨んでも何も始まらない。


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