エホバの証人2世の悪癖は、エホバに起因
私はほぼ生まれながらのエホバの証人2世信者だった。エホバの証人とは自称キリスト教系の新興宗教。日本ではものみの塔聖書冊子協会という名称でも知られている。2世信者とは親の信仰を押し付けられた子供のこと。
私の持論では、エホバの証人の2世信者には罪悪感が薄い傾向がある。その理由は2つ。1つ目は、エホバの証人の神エホバの悪徳に起因する。2つ目は子供の頃に繰り返される体罰。
1つ目、エホバの証人の神エホバの悪質さから。
私は10代後半のときに両親と決別し、エホバの証人をやめた。その頃から繰り返し法に触れるような悪事を行ってきた。自分の願望を叶えるためならば、多少の罪を犯すことも厭わない。
この姿勢は、神エホバの独善的な態度そのもの。この神は、かつて世界を水の中に沈め、自分のお気に入り一家以外のあらゆる生物を葬った。ノアの箱舟(方舟)として有名な話。
そして、ものみの塔が予言しているハルマゲドンで、もう一度その過ちを繰り返そうとしている。ものみの塔の予言では、来たるハルマゲドンでエホバの証人以外は全員神エホバにより滅ぼされるという設定。
神エホバの利己主義や独善的な態度が、ものみの塔という偶像を経由してエホバの証人2世の子供たちに伝播している。
未成年の頃の飲酒や喫煙については、非エホバの証人的生き方の象徴として、自ら好んで生活に取り入れた。エホバの証人は喫煙禁止、過度の飲酒も禁止。基本的には国の法を遵守するよう信者に説いている。
また、自分たちの神エホバは悪鬼の如く残虐なのに、ものみの塔の文脈の中でなぜか慈愛に満ちあふれた神へ変換されている。そのため、エホバの証人たちは愛や自己犠牲、謙遜といった態度を美徳としている。
この時期の私は、いかにエホバの証人チックな生き方をしないか、ということに生活の重点を置いていた。非ものみの塔であろうとして、その戒律に反することを進んで求めていた。
根底に流れるエホバの証人の神エホバの悪徳さ、表面的なエホバの証人の美徳、それを単純にひっくり返して、エホバの証人を完全にやめたつもりになっていた。
こうして私は、エホバの証人をやめた後でも『ものみの塔』という偶像に縛られ続けていた。
エホバの証人2世の罪悪感の薄さの原因は体罰
私がエホバの証人をやめた10代以降、繰り返し行っていた様々な悪事。徹底的に研究し、露見しないテクニックを考え出していた。幼い頃からエホバの証人的悪事を繰り返してきたことの、逆の意味での賜物。
エホバの証人2世の罪悪感の薄さの原因、2つ目は子どもの頃に繰り返される体罰。エホバの証人的悪事を犯すとエホバの証人の子供には体罰が待っていた。
エホバの証人の子供には禁止事項が多い。ものみの塔の戒律ゆえ。それを破ると、待っているのはこっぴどくお尻を引っぱたかれる懲らしめという体罰。
エホバの証人の集まりで大人しくしていない、エホバの証人にとって禁止のテレビ番組をこっそり見たなどという、一般の子供なら問題にもならない些細なこと。
エホバの証人は禁止事項が多く、心霊系、攻撃的なアニメは厳禁だった。私の子供の頃で言えば「オバケのQ太郎」はお化けだからNG、「キン肉マン」も攻撃的だからダメ。
同級生が見ているテレビは見たいというのが子供の心情。そりゃ親に隠れてテレビを見る。
小さな頃から親の言いつけやものみの塔の戒律をいかに露見せずに破るかという修行を積んで来た。バレるとしこたま体罰を受けるから。体罰を回避するため、悪事を隠す技術が研鑽された。ものみの塔の子供教育はろくな結果をもたらさない。
見つからなければ良いという罪の意識の薄さは、私が20代後半になっても拭われなかった。私は飲酒運転で大きな自動車事故を起こす。この時に支払った代償は大きなものだった。多額の罰金を支払い、運転免許を失った。
この自動車事故は私自身が死に至ってもおかしくないような大事故だった。私を含めてケガ人が皆無だったのは不幸中の幸い。
エホバの証人2世としてものみの塔という偶像に縛られて生きてきた。そして、破滅に至る寸前で奇跡的に生き残った。
この時、罪を犯すということと、その代償について、ようやく私は気付く。同時に代償云々よりも、私の身勝手な行為が他者に与える被害について考え始めた。
「バカは死ななきゃ治らない」というのは、言い得て妙。死にかけて、ようやく他人の生命や財産を傷つけることの罪深さを想像することができた。自分が今まで傷つけ奪われ続けてきたからといって、それをそのまま無関係の他人に転嫁することは許されないと気付いた。
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命を失いかけて、ようやくの再生と洗脳状態からの生還
幸いなことに私が起こした交通事故では、私自身を含めて怪我人は発生しなかった。2件の民家の外壁などが新調されただけで事故処理は完結。
この事故で誰かに怪我をさせていたり、死に至らせていたりしたらと思うとぞっとする。そして私自身が死んでいてもおかしくないような大事故だった。
私自身は全くの無傷で、救援に来たJAFの人に「鉄人ですか?」と言われるほど、車や民家の外壁の損壊は激しかった。
この事故で奇跡的に生き残った私の年齢は20代後半だった。現在の私は30代後半で一児の親。私の罪悪感の薄さは生きていく上で大問題だった。他者に与える損害が、万が一にも自分や自分の身内に向けられたモノだったならと考えてみるべき。
また、親として子供に対して手本を見せなければならない。見本となるべき親が、つまらない悪事に手を染めるということはあってはならない。こうして、やっとのことで私は「ものみの塔」という偶像から自由になれた気がしている。
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