地位でなく、地位のもたらすものにこだわる
『良心の危機』第4章「内部動乱、そして改革」より。
ものみの塔協会の組織内部のしょうもない権力闘争。人の集まる所に権力や地位の争奪が起こるのは人の世の営みであり、ものみの塔という組織が単なる人間の一団体であることが良く分かる本章。
そして、一切の好ましいものをもたらさないカルトであることが明らかになる本章。
筆者は権力抗争の元ととなる「地位」について以下のように述べている。筆者が一国でのものみの塔組織の最高責任者としての
責務を果たすにつけ、「地位」というものが常に気になり、その「地位」を守る必要も感じた。しかしいろいろあった末、地位にこだわっていると、人づき合いも楽しくないし、自分の生活も面白くなくなることがわかった。地位に絡んで生まれてくる対立や確執などもまったく肌に合わない。しばらくするうち、地位にこだわるのはやめてしまった。すると毎日がうんと楽しくなったし、それまでよりはるかに生産的かつ有益な結果につながった
ここで書かれている生産的・有益な結果が脱会前のエホバの証人活動に関わることなら大ひんしゅくなのだが。
ものみの塔内部で得られる地位など、この程度のもので実利が伴わない。経済的に恵まれる訳でもなく、世の中に対する生産的行動の実行権限が得られる訳でもなく。カルト信者に対する法王的権限が備わるだけ。ものみの塔組織での地位向上は、言わば悪事が極まるだけで無価値。
必要なのは地位にこだわることではなく、地位のもたらすものにこだわること。地位が与えてくれる決定権、無論それは社会的善に対する行動の決定権であるべき。そして地位のもたらす自由。経済的自由だったり精神的自由だったり。
実利を考えぬまま、地位にこだわるのを単純にやめるというのはエホバの証人的世捨て人的発想。
自らラビになろうとする者
さて、無益な闘争を繰り広げたものみの塔協会と統治体の話。要は、権力を一手に掌握したいものみの塔協会&会長vs統治体による複数人での委員会制に持ち込みたい人々。両者の政争。
後にものみの塔協会会長になったフレッド・フランズは権力を協会側に集権したい側で、そのために都合よく捻じ曲げた聖書解釈をスピーチで披露している。筆者はそのスピーチを評して
神の言葉が、あの時はこの意見のため、別の時はまったく反対の意見のためという具合に、その時の都合に応じて勝手に使われる
と書いている。さらに、
クリスチャン会衆の中で「教える者」と呼ばれ得る者はごく少数で
それは、自身であるとフレッド・フランズは発言している。
フレッド・フランズは、今で言ういわゆる老害で、「下剋上講演」で統治体を持ち上げてみたり、いざ権力の座が揺らぎそうになると、手の平をひっくり返したり。そして、最後は自分がラビというか、教祖になろうとしたり。
こんな輩が上層部にいて宗教本を執筆していたということからして、ものみの塔に近づかない人生がベストであることは明らか。