死んだエホバの証人の子どもは自分自身
『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』の「第九章 子」から。本書が題材としているエホバの証人児童の死、著者はその亡くなったの子どもの幻影を追いかけている。
「死んだ子供は、ひょっとしたら俺なのかも知れない」と筆者は書いている。
あの被害児童は我々そのもの。右も左も分からない幼い頃からカルトを強制されたエホバの証人の子ども。
私にも、被害者児童同様に輸血拒否で殺されていた可能性が充分にある。その死地から偶然サバイバルした者の責務として、このブログを書き続けている。
物理的に死んだかどうかはさておき(尋常でなく大きな問題ではあるが)、エホバの証人の子どもとして傷を負ったという事実は誰もが共通。それぞれが抱える傷の深さが違うだけ。
死んでしまったか、生きているかの違い。あまりにも大きな差ではあるが、生きていても、深い傷に身動きがとれなかったり、数十年もの間、見える景色が灰色のままだったり。死に体同然だったり。
やはり、あの被害者の子どもはオレたちなんだ。
エホバの証人のまま暗闇を彷徨うもう一人の自分
「第九章 子」では、いかにしてエホバの証人というカルトで幼少期を過ごした者が、脱出し蘇生するか。色のついた世界を取り戻すか。そのヒントの断片を読み取ることができる。
エホバの証人の子どもなら誰でも見たことのある夢、終末、ハルマゲドンの夢。少年たちは一様に
ハルマゲドンのイメージという地獄を、こころの中に飼っていた
この夢を見る子どもたちが抱き始める疑惑。少年たちには
物事を多角的に見る力と、自分と自分を取り巻く世界を客観的に見る力が育ってくる。それが、これまでの安定した自己と、自己を支えてきた、”エホバの証人理論”に対する疑惑を、身の内に育て始める
この疑惑が生まれると、過去と未来、エホバの証人の妄想の世界と現実世界の真実とに、自身が切り裂かれるような感覚に苦しむ。
彼らがこの夢から逃れる道は、二つしかない。一つは、疑惑を塗りつぶし、自己の感性を鈍磨させること。もう一つは、エホバの証人の世界から完全に足を洗うこと
前者の鈍磨は論外。これは生きながら死んでいるに等しい。少年の感覚を強制的に眠らせたまま、エホバの証人として時を過ごせば、あっという間に中年になる。時は戻せないし取り返せない。しかもカルト活動という悪事に加担し続けることになる。しかし、
死んだも同然とはいえ、幸いなことにまだ生きている。死んだ少年に比べれば、まだやり直せることを幸運と思うべき。引き返せ。
苦しみの日々から逃れるもう一つの方法。それは、エホバの証人の世界から完全に足を洗うこと、と著者は述べる。果たしてそれが可能なのか。
ハルマゲドンの夢を見るほどに養われたエホバの証人の子どもの恐怖心。染みついたエホバの証人理論と思考方法。
物理的に、完全にエホバの証人から足を洗ったとしても、心の隅にはエホバに蝕まれた暗闇が残る。三つ子の魂百まで。
エホバの証人の言っていることは全部妄想で嘘、そう理解した今でも私はエホバという毒から完全に解放されたとは思えない。大人になってもエホバの証人をやめられず、本当の闇の中にいるもう一人の自分の姿を夢に見ることがある。
そして、実際に暗闇のただ中にいる、数多のエホバの証人が現実世界に存在する。彼らはその現実の重み、罪深さに気付きもしない。
完全にエホバという猛毒から自由になる方法。それは、
現実の世界から完全にエホバを消し去る。ものみの塔の消滅とエホバの証人をゼロにする。その日まで、完全な救いはない。