元エホバの証人のモラル、不自由さを追い求めるエホバの証人

人類皆牧師?人類皆聖職者?エホバの証人の間違い

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』の「第九章 子」から。私自身が子供の頃にエホバの証人を強要されていたこともあり、この章には考えさせることが多く。

生きたモラルに対する内的な直観-それは、聖書のモラルを外側から強制されるエホバの証人の世界には、見つけにくいもの

だったから、マンガ『湘南爆走族』にハマったというエホバの証人の子供が紹介されている。

私もこの内から来る直観がエホバの証人をやめる原動力になった。私の直観、それは、

誰もが人生の意義は自身で追い求めるべきであるというもの。生きる意味は自分で考えるべきという私のモラル。

神が人間の創造物だろうが、人類が原罪を抱えていようが、その贖いに深い愛が示されたのだろうが、そんなのオレには関係ない。それが私のモラル。

生きる目的のようなものは自分で見つけるべきで、それが見つかればそれに全力を尽くせばいい。例え見つからなくても、その迷いもまた人生そのもの。

「神の王国の到来を宣べ伝えること、それが人生の意義の正解です」と、人から与えられることでもなければ、ましてや押し付けられるモノではない。生きる意味なんてものに全人類共通の最適解なんてある訳ない。

無理やりに共通化しようとすれば、既にその答えは私が述べている。迷いながら自分で見つけるモノ、もしくは迷うことそのものが人生。

エホバの証人の強制する、神の王国を宣べ伝えることが人類共通の人生の目的だってのは明らかにおかしい。人類皆牧師?人類皆聖職者?そんな人生まっぴらってのが、私がエホバの証人をやめた14才のときの内からくる直観。

エホバの証人の唯一の救いは、脱会してからの絶望

すべてのエホバの証人を解放し、ものみの塔を崩壊させる

あえて不自由さを求めるエホバの証人を見逃せない

エホバの証人をやめた当時からだが、自分がエホバの証人まっぴらというだけでなく、誰かに強制され、選択の自由を失っている人々を見逃せないという意識が私に芽生えた。その自由喪失の代表がエホバの証人。

見逃せないという感情は、当初はイラ立ちとして発露した。エホバの証人の王国会館に連行される都度、せっかくの日曜を無駄に消耗している人々を見ていると怒りが湧いてきたし、そこに自分が巻き込まれているのが苦痛だった。

王国会館の苦行から抜け出した後は、目を逸らし続けた。視界に入れば見逃せない、許せないので、「いかにエホバの証人が人生を損なっているか」を訴えたくなる。しかし、そんな言葉が伝わる連中ではないので、不毛な消耗を避けるためにエホバの証人から目を逸らし続けた。

そして、今に至る。やはり放っておけない。ということで、情報発信を始めたのが数年前。

教義が一貫しない騙しのものみの塔が単にキラい、自身の生い立ちに対する恨みもある。そして、やはり自由を奪われるエホバの証人たちを見逃せないという思い。

老い先短い他人の集団なんだから放っておけばいいのだが、どうしても私はエホバの証人を見逃せない。お節介、大きなお世話そのものなのだが、

全エホバの証人を解放したい。解放して現実の苦しみの中に大放流して絶望させたい。その絶望の先にこそ、微かな希望や人生の意義がある。

ものみの塔を解散させ、エホバの証人をゼロにする。この思いは私にとって既に○○。これについては明日。


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