エホバによって引き裂かれた自我、その再統合のための反エホバ

分裂の危機にある自我を統一するのが宗教

『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』の「第九章 子」から。

ものみの塔を解散させ、エホバの証人をゼロにする。この思いは私にとって既に○○。と昨日の記事で書いた。

この○○とは「宗教」。

ものみの塔を解散させ、エホバの証人をゼロにする。これはもはや私にとっての宗教。

宗教について、この本『説得』では以下のように他の文献からあらーく引用している。

ウイリアム・ジェイムスが、その膨大な著作のどこかで“宗教というものは、何らかの理由で分裂した自我を、再び統合する力である”という意のことを言っていた

現代社会において、子供がエホバの証人という宗教を親に強制されれば、いずれこの状態に至る。自我の芽生えと分裂。

自我の再統合に、そのまま宗教としてのエホバの証人を求めると、人生がほぼ終わる。そのままエホバの証人の大人になり、自分を押し殺したままの生活が続く。圧倒的な精神的不健康。精神を病んだり、文字通り自ら人生を終えたり。

私の場合は再びの自我の統一に使ったのが、反エホバという強い意思だった。

反エホバという宗教

全能の神だろうが何だろうが、関係ない。今を自分の好きなように生きる。愛にあふれた神だろうが何だろうが、不自由を強制されるのは絶対に我慢ならない。永遠に生きなくたって良い。今を全力で生きればそれでいい。

私がエホバの証人をやめたときの考えがこれ。

こう考えると、子供の頃から押しつけられてきたエホバの証人の教えに、イラ立ちすら覚えた。強烈な反感。

創造主だろうが何だろうが、オレに何かを強制するんじゃねぇと。

そして、まるで家畜のように王国会館で飼われているエホバの証人に対する不信感も生まれた。

女性はスカートとか、暴力的テレビはダメとか、そんな面倒くさい決まりにヘコヘコして永遠に生きるって意味あるのかと。今でもそんな生き方しているから、生気が無くて不自由で、だからそんなに醜いんだと。

完全な体になって、生まれ変わって永遠に生きる?それはただの不格好な現実からの逃避。元の生き方や心根がそんなに醜いんじゃ、生まれ変わっても大したことない。

しかも、生まれ変わってからもエホバの証人は戒律の奴隷のまま。ひたすら快楽を求めることはもちろん、ちょっとした火遊びも許されない。それって永遠の生き地獄。永遠の奴隷。

そんな未来を待ちわびているエホバの証人に対する嫌悪感。

この頃、10代の私はエホバの証人の洗脳下にあったので、神エホバの存在や終末の預言の実現は現実のモノとして信じていた。

それでも不自由なエホバの証人はダサくて嫌だし、生き方を強要してくる神や組織が大嫌いだった。この反エホバ感情を糧に、エホバによって分裂の危機にあった私の自我は再統一されることになった。

このときから、反エホバは私にとって、もはや宗教。


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