不毛なエホバの証人(JW)の祈り
エホバの証人(JW)が自宅で祈りを捧げる場合、父親などの代表者が声に出して行う。タイミングは食事の前や、聖書研究と呼ばれるものみの塔の宗教本の勉強の前後など。
信者の個人宅で開かれる集会の際には賛美歌の合唱は行われないが、この祈りだけはしっかり捧げられる。日本家屋で正座した集団が、祈りの最後に声を合わせて「アーメン」。
冗談も大概にして欲しいのだが、本人たちは至って大真面目。
このとてつもなく長い祈りの間、聞いている側は目を閉じて、合わせた両手の指を組み合わせたポーズで神妙な顔つきをしていなければならない。不毛。
エホバの証人が盲信する神エホバなど存在しないので、虚空に向かって無意味な言葉の羅列を投げかけているだけ。その虚しさは、エホバの証人の空虚な人生そのもの。
無意味なエホバへの祈りは怨念と化す
寺社仏閣では、我々の祖先が古来より祈りを捧げてきた。そこには、遥か昔からの人々の思いや願いが結集している。何らかの力がある。また、自身を見つめなおすことが出来る。決して無意味な祈りではない。
キリスト教の聖堂でも同じ。荘厳な装飾と立派な建物の中で、厳かな感情を抱く。そして、澄んだ瞳で自分の心を見つめることが出来る。
しかし、エホバの証人の祈りは不毛。
マインドコントロールされている集団が虚空に向かってエゴをぶちまけているだけ。普通の個人宅で正座をして、聖職者でもない勝手に献身している気になっている一般人の祈り。そんなものがリアルな天の神に届いていると思っている愚かさ、これがマインドコントロールの恐怖。
エホバの証人が信仰しているつもりの神エホバ、これが存在しない。もしも存在するならば、神の名を騙り、証人を名乗るものみの塔という予言をハズし続ける偽予言者を、とっくの昔に始末しているはず。
未だにものみの塔というカルト集団が野放しにされているのは、エホバという神の無力、不在を証明している。ものみの塔は架空の神エホバを担いで、信者に組織崇拝、ものみの塔という偶像を崇拝させている。
よって、エホバの証人がいかに祈ろうと、その祈りは天にも神エホバにも届かない。無意味な言葉の羅列を虚空に投げかけているだけ。
集団の祈りが何か力を持つにしても、その対象が偽物、カルト、巨悪のものみの塔であれば、力は宿りようがない。太古から存在する神社や、荘厳なキリスト教の聖堂とは訳が違う。
エホバの証人の祈りが何らかの力として宿るとすれば、出元がものみの塔という悪なので悪い力、怨念として集合する。負のオーラの蓄積。だから、エホバの証人は往々にして心身を病むのかも知れない。
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