合掌しないエホバの証人の祈り方から伺えるものみの塔の二面性

エホバの証人二世が給食の前に手を合わせない理由

日本の学校の給食の前、両手を合わせる合掌のポーズは、エホバの証人には許されてはいない。理由は、エホバの証人が異教とみなす仏教や日本古来の神々への祈りのポーズを連想させるから。

日本の食卓の「いただきます」は、ありとあらゆるものへの大雑把な感謝を簡素に示したもの。これが機能性と様式美を備えた風土に根ざした祈り。しかし、こういったものを良しとする柔軟さをエホバの証人は持ち合わせていない。

エホバの証人の祈り方

エホバの証人の祈り方は以下のように決まっている。1人で単独で祈る場合や衆目の視線があるような場所では、祈りの発声はしなくても良いことになっている。学校の給食の前などもそのパターン。

しかし、こういった場合でも両手の両指を交互に握り合わせた祈りのポーズだけはしなければならない。逆に集会所などに信者だけで集まった場合や、家庭内で代表者が祈る場合は発声して祈らなければならない。

エホバの証人の教義はこの微妙なラインをついてくる。イスラム教徒のように時間がくれば、床に膝まずいて祈らなければならないというほど過激ではない。しかし、その一方で食堂に集まった全校生徒と同じように合掌のポーズをとることは許されない。

ご都合主義のものみの塔

ものみの塔は寄付金を集め、経済基盤を安定させるために社会にそれなりに適応する。かつてナチスドイツに迎合し、一時は国際連合のNGOに加盟していたほど。ものみの塔は時代時代の長いものに巻かれる主義。

しかしその一方で、信者個々人にはエホバの証人であることを声高々と宣言することを強制する。ハルマゲドンを生き残る選ばれた者であり、一般社会とは一線を画していると明らかにすることを要求する。

学校の食堂での給食の前は、祈りの発声まではしなくても良いけど、両手の指を組んで目を閉じてお祈りしなさい。合掌のポーズでのお祈りはNG。ものみの塔協会の教義は、都合が良く、どうでも良い細かい所にこだわる適当教義。

私の父親も会衆内で長老と呼ばれるポジションにいたのだが、あまりにも周囲の視線が激しそうな場所での食事の際には、手を握り合わせることなく、さっと祈ることを許してくれた。エホバの証人の教義にも組織同様に二面性がある。

ものみの塔の適当教義に命をかけてもリターンゼロ

しかも、その適当教義は、伝統とか歴史的な文献に従ったものでなく、自分たちに都合よくものみの塔が決めた物。人間が組織にとって都合の良いように造った戒律。

この戒律造りに失敗して上手く社会に迎合できなかったパターンも存在する。輸血や兵役の拒否がそれ。こんな適当な教義を遵守しようとして、輸血拒否で死んでいった信者も存在する。これは社会問題になった。

ものみの塔の二面性は激しく、逃げ切れないとなったブルガリアでは輸血が対外的には解禁。ものみの塔協会の教義は、決して命がけで遵守すべきものではないということ。命までかけても何も返ってこない。もともとが適当教義なので。

エホバの証人2世のいじめと二面性


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