エホバの証人に関わったのがすべての間違いの始まり
北海道のエホバの証人広島会衆の集団排斥事件について。1980年代中ごろの大昔の話だが、当時の資料を読んでいる。
資料へのリンクは、エホバの証人 – STOPOVER(途中下車)
彼らが、排斥になって間もない頃に裁定者に出した手紙より。自分たちを排斥し、裁きの日に滅ぼされることを余儀なくさせた上層部の不条理を糾弾している。突拍子もない話なのだが、当時は信じちゃっていたということ。
エホバ神のみ前で流血の罪を負い、天の法廷を侮辱する行為となることを知らないというのでしょうか。エホバ神は生きておられ、このことをご覧になっているはずです
この前提に誤りがある。
エホバ神は生きていないので。つまりは見てもいない。よって、天の法廷など存在しない。この前提が間違っていたために、この人たちは時間を無駄にし、無意味に傷つき、人生を浪費した。
流血の罪というのは、大げさに訴えたにすぎないのだが、ハルマゲドンでの滅びを自分たちに押し付けた、それを組織側の罪・霊的殺人と言っている。しかし、これではものみの塔側に裁きの日の最終ジャッジの権限があると認めているようなモノ。
組織に残りたくて、この手紙を書いたのだから仕方がないのだが、視座をどこに据えるかがいかに重要か分かる。
しょーもないエホバとかものみの塔に、当初から関わるべきではなかった。そして、一遍たりともエホバとかものみの塔の権威を信じてはいけない。エホバは偽神で存在すらしないし、ものみの塔なんてただのダサいグループ。
関わったが最後、精神や身体を病み、人生のすべてを搾取される。
でなければ、私のようにものみの塔と戦い続けるか。巨悪・完全悪であるものみの塔の存在を知ってしまった以上、それを見逃すことは出来ない。
今でも、人生そのものを搾取されている被害者が世界中に1000万人も存在する。ものみの塔という悪の権化を知ってしまった以上は、心身に余裕があれば、ものみの塔の壊滅を望むのが人間としての正しい生き方。
私も脱会してからここまで来るのに20年かかった。まずは自分の心身と生活の安寧、経済状況の安定を。状況が整えば、ものみの塔をこの世界から消滅させる行動を。
天の法廷の下でものみの塔協会を葬る責務を負っている
彼らは、除名解除の嘆願、糾弾の手紙を何千通と書いた。涙ぐましい努力ではあるが、全く報われず。教団側は完全無視。
その手紙の中で興味深い点がある。後半の手紙では、背教と言われ排斥された彼らが、ものみの塔側を背教として告発しているのだが、その基準にものみの塔協会発行の出版物を引用している。
ものみの塔を基準にものみの塔を糾弾しているということ。これではどこまで行っても、ものみの塔の掌の上。
ものみの塔なんてニセモノ、エホバなんて存在しないというのが真実。その真実を訴え、自分こそが真実を知る者だとして新しく組織を構成するとか、ものみの塔の崩壊、信者の脱会を推し進めるとかすればいいのだが、そうはいかなかった。
当初は、組織への残留を希望、それが叶わないと日本支部を糾弾、それも徒労に終わると世界本部を糾弾、最後に統治体を疑う。それでも統治体の中には本モノがいるのではないかという希望を捨てきれずにいた。
統治体も全員ニセモノ。権力欲にまみれた守銭奴集団。組織内でのし上がる政治力やバランス感覚が優れていた、ただのヒト。問題なのは、語れば抜群の偽善舌を持つ蛇な点。全世界のエホバの証人が、統治体という蛇に欺かれている。
冷静になると、明らかなのだが、教団内にいるとその視点に立てない。この広島会衆の人々は、最後の最後まで、統治体の中にはホンモノの油注がれた者がいるという幻想を拭えなかった。
こう考えると、この人たちに他に手段は無かったかと思われる。最初からエホバの証人にならない、という手段以外には。それだとこの話自体が無かったことになるので、こうして、本格的な手順を踏んで資料を残すところまで行っているだけで尊敬に値する。
後世の我々は、この意志を引き継ぎ、偽神エホバとものみの塔という偶像を徹底的に壊滅させる責務を負っている。天の法廷のもとで。と言いたいのだが、そんな天の法廷はないので、個人的使命感として。