エホバの証人の洗礼~バプテスマという献身の儀式に関する二つの誤解

エホバの証人のバプテスマに関する誤解二つ

エホバの証人としてある程度のキャリアを積むと、バプテスマという献身の儀式を受けるよう組織側から求められる。普通のキリスト教で言うところの洗礼の儀式。

本人が望んでエホバという神に献身しているつもりなのだが、実情は違う。ここに誤解が二つある。

  1. エホバの証人は望んで献身している訳ではない
  2. エホバの証人が献身しているのは神ではない

エホバの証人は自ら望んで献身している訳ではない

エホバの証人組織内でのヒエラルキーは献身した者>献身していない者。献身した者ほど神に愛されるという建前で、献身している信者ほど組織内で優遇される。

こう序列をつけられると、可能であれば上にあがりたいと思うのが人情。つまりは、本人が心から望んだ訳ではなく、本人が「献身したーい」と望むようにエホバの証人組織側から仕向けられているということ。

この状態にまで至ると、基本的には全員が全員ものみの塔協会によって洗脳されているので、容易にこのルートに乗っかってしまう。

エホバの証人は献身すると「○○兄弟、○○姉妹」と呼ばれるのだが、献身していない信者は「研究生」と呼ばれる。この時点で、研究していない信者は一段階蔑まれている。兄弟姉妹とは認められないということだから。

この兄弟姉妹という呼び方はエホバの証人の排他性も表している。エホバの証人でない者は身内ではないという差別感情。

私がエホバの証人の子供だった頃、長年、献身しないままエホバの証人の王国会館に通い続けている人がいた。この人はエホバの証人組織内で問題児扱いされていた。理屈っぽく、ベテラン信者とも徹底的に議論したがるタイプ。

一般社会でも嫌われるタイプなので、エホバの証人の世界に逃げ込んだのだろうが、そこでも浮いちゃったということ。子供の私も、周囲のエホバの証人の影響を受けて、この人自身に問題があると思っていた。

だが、いつまで経っても、周囲に流されず、安易に献身という道を選ばず、徹底的に物事を考えようとする姿勢は決して間違っていない。流されて洗脳され、簡単に献身した兄弟姉妹たちの方こそ愚か。

閉鎖した集団の中では、こういう正常な判断ができなくなる。ゆえに、ずっと研究生という人は、エホバの証人の世界では蔑まれることになる。この長年研究生だった人だが、最後には陥落、献身したそうだ。

どんなに疑い深くても、長年ものみの塔に触れるのがいかに危険かということ。ただ疑い深いだけでなく、論理的に物事を考える習慣がないと、ものみの塔の洗脳テクニックには勝てない。

もしくは、私のように欲望に忠実主義、直感でエホバの証人はダサい、カッコ悪い、嫌い。ハルマゲドンで死んでも良いし、神を敵に回しても短い生涯ぶっとく生きてやるという単純さがないと、ものみの塔の洗脳テクには勝てない。

エホバの証人が献身しているのは神ではない

献身するエホバの証人たちは、エホバという神様に献身しているつもりなのだが、事実は違う。実際はものみの塔協会という組織に献身している。

物理的な話だとエホバという神は存在しないので、献身しようがない。そのためエホバの証人たちは、ものみの塔協会という組織、ものみの塔という偶像に献身している。エホバの不在は証明しようがないのだが、

「エホバ死ね、エホバファック!」と言っている私が末永く幸せに楽しく生きることで証明しよう。死の間際、良い人生だったと思えればそれでいい。とにかくエホバは不在。

精神的な話だと、バプテスマを受ける前にエホバの証人たちが誓う問いかけがある。それが巧妙に組織崇拝型になっている。その話はエホバの証人のバプテスマとはで。


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