エホバの証人のバプテスマに関する2つの誤解
エホバの証人としてある程度の経験を重ねると、バプテスマという献身の儀式を受けるよう教団側から求められる。同調圧力、無言の圧力によって、ときには直接的にも要求される。
バブテスマというのは、普通のキリスト教で言うところの洗礼の儀式。
本人が望んでエホバという神に献身しているつもりなのだが、実情は違う。ここに誤解が2つある。
- エホバの証人は、自ら望んで献身しているわけではない
- エホバの証人が献身しているのは、神ではない
エホバの証人は、自ら望んで献身しているわけではない
エホバの証人組織内でのヒエラルキーは、献身した者>献身していない者。献身した者ほど神に愛されるという建前で、献身している信者ほど教団内で優遇される。
こう序列をつけられると、可能であれば上にあがりたいと思うのが人情。しかも、エホバの証人と関わろうなんて人は、世間で劣等感を抱えていたり、心身に不調があったりという人。少しでも誰かに認められたいという思いが強い。
献身の有無で序列はない、とエホバの証人は言うだろうが、そんなことはない。キッチリ序列がある。会衆の決議で決を採られるのは献身済み信者だけ。
決議は寄付金の運用・仕様方法がメインになる。未献身信者も寄付はしているのだから、当然決議に加えるべきなのに、そうでない。やはり、ここに序列が存在する。
(※この決議は、反対者がほとんどでない既定路線。凄まじい同調圧力が発生している)
エホバの証人は献身すると「○○兄弟、○○姉妹」と呼ばれるのだが、献身していない信者は「研究生」と呼ばれる。この時点で、研究していない信者は一段階、蔑まれている。兄弟姉妹とは認めないということだから。
この兄弟姉妹という呼び方は、エホバの証人の排他性も表している。エホバの証人でない者は身内でない、という差別感情。
エホバの証人組織は、未献身の信者たちが「上に上がりたい、兄弟姉妹として認められたい」といった感情を抱くように仕向けている。つまり、本人が心から望んだわけではなく、本人が「献身したーい」と望むように、教団側から仕向けられている。
私がエホバの証人の子どもだった頃、長年、献身しないままの中途半端な信者がいた。この人は会衆内で問題児扱いされていた。理屈っぽく、ベテラン信者とも議論したがるタイプ。
一般社会でも嫌われるタイプなので、エホバの証人の世界に逃げ込んだのだろうが、そこでも浮いちゃったということ。子どもの私も、周囲のエホバの証人の影響を受けて、この人自身に問題があると思っていた。
だが、いつまで経っても、周囲に流されず、安易に献身という道を選ばず、徹底的に物事を考えようとする姿勢は決して間違っていない。流されてマインドコントロールされ、簡単に献身した人たちの方こそ、愚か。
閉鎖した集団の中では、こういう正常な判断ができなくなる。ゆえに、ずっと研究生という人は、エホバの証人の世界では蔑まれることになる。この長年研究生だった人は、最後には陥落、献身してしまった。
どんなに疑い深くても、長年エホバの証人に触れ続けるのがいかに危険かということが分かる。ただ疑い深いだけでなく、論理的に物事を考える習慣がないと、ものみの塔のマインドコントロールテクニックには勝てない。
もしくは、私のように欲望に忠実主義、直感でエホバの証人はダサい、カッコ悪い、嫌い。ハルマゲドンで死んでも良いし、神を敵に回してでも、短い生涯ぶっとく生きてやる、という単純さがないと、ものみの塔のマインドコントロールテクニックには勝てない。
エホバの証人が献身しているのは神ではない
献身するエホバの証人たちは、エホバという神様に献身しているつもりなのだが、実状は違う。実際はものみの塔という組織に献身している。
物理的な話だとエホバという神は存在しないので、献身しようがない。そのためエホバの証人たちは、ものみの塔という組織、ものみの塔という偶像に献身している。
エホバの不在は証明しようがないのだが、
「エホバ死ね、エホバファック!」と言っている私が、末永く幸せに楽しく生きることで証明しよう。
精神的な話だと、バプテスマを受ける前にエホバの証人たちが誓う内容にある。それが巧妙に組織崇拝型になっている。その話はエホバの証人のバプテスマとはで。
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