態度とは裏腹に罪深いエホバの証人の精神

精神的な罪を日常的に犯しているエホバの証人

エホバの証人2世には罪悪感の薄さという特徴がある。幼い頃から自分は罪を犯し続けていると思い込んでいるからである。エホバの証人の戒律には禁止事項が多過ぎるのだ。あらゆるものに興味を示し、それらを経由していくべき好奇心旺盛な子供たちにとってエホバの証人の法を遵守することは至難の業である。罪と言っても感情的な罪ではない。具体的に戒律を破ってしまうのである。

妬みや憎しみなども、もちろんエホバの証人的には抱くべき感情ではないとされている。エホバの証人はもともと純粋な原始キリスト教を自称しているので当然ではある。ただそういった感情に対してエホバの証人が罪の意識を覚えることはほとんどないだろう。エホバの証人の会衆内には特権階級に対する羨望以上に無意識的に嫉妬が渦巻き、自らの信仰に水を指す人々に対しては憎しみにも似た感情が芽生えている





感情面では未熟なエホバの証人

エホバの証人は自分たちの宗教のみが真理で、その他は全て偽物で悪魔サタンの誘惑の賜物であると洗脳されている。そういった異教の者にも大きな愛を示すべきだとは教えられるのだが、そんな人格者が新興宗教団体から育つことはないのである。

エホバの証人としての信仰を守るには試練が多すぎる。その理由はものみの塔協会の戒律主義にある。厳しすぎる戒律を守ることやエホバの証人組織に留まることを邪魔する家族や親族のことまで悪魔の手先だと忌避するのである。自分の信仰を守ることにかたくなになっているエホバの証人はそういった反対者に対して好意的であることはない。

子供の頃の私なども○○姉妹の旦那さんは反対者でなどと親から聞くと、その反対者の人に会うのが恐ろしく感じられたものである。両親ともにエホバの証人という神権家族で育った私にはその傾向が如実だった。

エホバの証人たちが既に組織を去った家族に対してもどういった感情を抱くか、想像に難くない。背教し組織を追い出される排斥処分となった人に対する態度は愛に溢れるキリスト教徒のものではない。排斥された人には街で偶然会っても挨拶すらしてはいけないのである。食事をしているところなどを目撃されると自身までもが巻き添えで排斥処分になる可能性がある。この排斥処分はものみの塔協会的村八分と言える

教会の贖罪室で自分の心中の憎しみや嫉妬を懺悔するような精神的円熟感はエホバの証人には無いのである。


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