カルト宗教に信教の自由が必要ない理由
Amazonのkindleで読める『元宗教二世たち山上容疑者を語る: ありそうでなかった!多宗教二世たちの対談』から。
対談の中で
信者の信仰の自由も尊重したい
という意見が出ている。元二世信者の被害者から出た意見だが、私はこの意見には反対。
現在の西側諸国の仕組みが、たまたま信仰にまで自由が認められているというだけ。その過剰な自由の行き過ぎで、私のようなカルト宗教二世信者の人生が汚染されている。
宗教なんてあっても無くてもどうでも良いモノに無理矢理自由を与える必要などない。新宗教の一切を禁止してもいいくらい。ここまで過激でなくともカルト宗教の類に自由は必要ないというのが私の意見。
カルトの基準だが、人権侵害しているとかマインドコントロールしているとか高額の寄付があるとか死亡者が出ているとか、小難しいことを考えなくても簡単な基準がある。
該当宗教の教義が社会として認められるか否か?社会が到底認め得ないものを教義としているのなら、カルト、もしくは危険宗教に認定し解散、活動も禁じる。
エホバの証人の場合、ハルマゲドンが来て国家転覆することになっている。そんなことは到底認められないのだから、当然組織体としても存続を許すべきではない。
信教の自由で国家が覆されたらたまったものではない。カルト信者の信教の自由より、国民の安全を優先すべき。
統一教会の場合は日本人は韓国人に謝意を示すために奴隷になれみたいな教義で(多分・・・)、そんな話も筋が通らない。国民一人一人が謝意を示すために破産するなんてバカげた話は認める訳にはいかないので、それを是とする組織の存続を許す必要はない。
このように話を持っていくと、反対意見として出るカルト擁護意見が「思想は自由」というもの。国家転覆を心で望もうが、国家が転覆すると思い込もうが、韓国人に謝意を示すために奴隷になることを望もうが、全て個人の思想の自由だからというもの。
この意見の根底にあるのは、他人がどう願おうが関係なく、国家転覆も日本人総奴隷化もあり得ないという安心感。おバカがどこまで愚かになろうが、そんな妄想は実現しないから、放っておいて自由にしてやれということ。
これはつまり、カルト信者たちが妄想を抱くように騙されていると理解しているから。あり得ない妄想を抱いているが、到底実現し得ないから問題にならない。カルト信者がいかに愚で搾取されようが、自由とか自己責任という言葉の元に放っておくということ。
この考え方には2つ問題がある。続きは明日。
“信教の自由を停止すべきカルト宗教の選別方法とは?” への1件の返信