「親棄て」という荒療治
昨日の記事で、カルト宗教2世が抱える共通的な地盤に
- 親を裏切る感覚
- 親に対する情
- 罪の感覚
があると書いた。根っこは似ていても、その後のルートが異なるため、カルト宗教2世の経由地、現在地が大きく異なる。その都度、その都度の選択が異なった結果、たどる道と現在地が異なる。
どれが正解というものでもなく、全ては本人が決めたこと。もしくは決めなかったこと。
例えば、親を裏切るという感覚を容赦しきれずにいる人。この人は未だにカルト宗教信者のままでいるかも知れない。
私は親を裏切るという思いに苦しみながらも親を捨てる決断をした。親に対する情を捨てようとした。これが出来ない人は、親ゆえに仮面カルト宗教信者であることを余儀なくされ、現在進行形で苦しみ続けている。
親であっても別の人間、他人。であれば、行動や思想に制限をかけてくる親は捨てても構わないと私は思う。
カルト親に粘り強く接して変心に誘導するという姿勢も賞賛されるべきなのだろうが、我が家の場合は「親棄て」が一種のカルト治療となった。
私は親を捨てるつもりで、エホバの証人をやめた。すると、親の方が「捨ててないでー」と妥協する形になり、両親もエホバの証人をやめた。
こう上手くいかなくとも、親を捨てる決断をしているので、親が歩み寄らなければ、そのまま親を切れば良いと思う。親の人生でなく自分の人生なのだから。ここまで、情を捨てきれない人はまた違った現在地にいるのだろう。
カルト宗教2世問題は、十人十色なので
後は、罪の意識。私の場合は、親に対する罪悪感が一番大きかったが、それ以外でも子供の頃から培われた宗教に対する罪悪感もあった。子供の頃から、ものみの塔組織を崇拝するように強要され、組織の宗教本なども大切にするように躾けられた。体罰付きで。
なので、当初はものみの塔の教義を破ることに罪悪感があったり、突然の神の裁きを恐れていたりもした。しかし、そういったものみの塔教義のすべてがデタラメだと気付き解放される。
この解放に至らず、脱会しつつも宗教的罪悪感に苦しむ人もいたり。また、宗教的価値観と一般的価値観の狭間で苦しんだり。
そして、私の場合、親を殺すなんてことは考えもしなかったけど、破滅させるのであればものみの塔組織そのものだという結論に至る。
逆に完全にカルトをシャットアウト。カルトと異空間で生きる人もいる。私もその時間を経由してきた。
一括りに元カルト宗教2世と言っても、経由地と現在地がさまざま。考え方も置かれた状況も十人十色。一緒くたに調理できない事情がある。
とはいえ、そのカオス鍋が乗っかる土台はカルトを強要されたというもの。であるなら、カルト宗教さえ存在しなければ、未来に同じカルト由来の苦しみを抱える人は出てこない。
なので、カルトであるエホバの証人組織を叩き潰せと私は言っている。
“カルト宗教2世信者の経由地と現在地、十人十色の問題” への1件の返信