エホバの証人特有の天啓体験とは?
『良心の危機』、第11章「決心」より。本章では、エホバの証人特有の天啓体験があると書かれている。
エホバの証人の教理では、
イエス・キリストが仲介者であるのは「油そそがれた」者たちのためだけであって、その他何百万人といるエホバの証人のためではない
という設定。
天に昇り、全宇宙を統治するのは「油そそがれた」者だけ。そのため、末端構成員のその他諸々のエホバの証人は、「油そそがれた」者で構成される統治体に服従しろとされている。
これは、組織統治、支配のために、都合よく作られたものみの塔の独自教理。
それについて、著者は
聖書を見れば、明らかにイエス・キリストはすべての「その他大勢」のために仲介者となって神との間をとりもってくれるとされている。キリストがすべての人のために自らの命を捧げたこと、受け入れる人には誰にでもその贖いの利益を与えること
すなわち、エホバの証人の教えられていることと反対のことが、聖書の福音であると書いている。これはつまり、エホバの証人組織に対しての背教。
この立場で聖書を読むと
他の人には当たり前のことでも、エホバの証人にとっては天啓かとも思われるショックを与えることがある
このショックを受けた元エホバの証人の言葉
「聖書を読みながら聖霊を拒否しているような気がしていました。ずっと読んでいって自分にそれを当てはめていくうち、急に止まってしまうう。あ、これは自分には当てはまらないんだ、油そそがれた者たちだけに当てはまるんだと思う」
こういったその他諸々の末端エホバの証人が
マタイから啓示(黙示録)に至る聖書の内容がまさに自分に向けられたものであり、拡大した「解釈」など不要で、本当に直接自分に当てはまるのだと納得すると、突然数多くの疑問が出てくる。答を求めていながらも敢えて尋ねようとはしなかった疑問の数々
それすなわちエホバの証人から見れば背教思想。
聖書的に見れば素晴らしい気付き。ものみの塔の色眼鏡を通さずに聖書を学べば、カルトから解放される。
たまたま目の前に現れたものに「安易」にフルベットする悪癖
私がこういう気持ちで聖書を読むことなど、これまでもこれから先もないだろう。
私にとってのバイブルはマンガ『天』とか『パチスロ115番街』。この本質は「人生の意味とは、一瞬の熱」。こういった感覚がエホバの証人というカルトから脱出する原動力になった。
キリストの贖いを望むとか、聖書に書かれていることが自分に当てはまるとか、私にはそんなこと考えられない。神仏に対する信仰心がないから。
本書に書かれている聖書からの天啓こそが、エホバの証人のマインドコントロール解放の第一歩と言えるのだが、これは単にエホバの証人のマインドコントロールから解放されただけ。
カルトから解放されるのは十二分に素晴らしいし、人間としての必須ラインなのだが、見えない何かに「安易に」すがりたい気持ちから全く自由になっていない。
こういった人たちは全く別の環境で座禅でも組ませりゃ、すぐに精神世界で何かを発見しちゃうんだろうし、スピリチュアルなものを信じ込みやすい。
本来の聖書の言葉に触れ、エホバの証人がカルトであると気付くのは良いのだけど、それはあくまでスタート地点。聖書も素晴らしいのかも知れないけど、他のカルトではない宗教にも、恐らく同じように琴線に触れる部分はある。
目の前にたまたま出現したものに、安易に人生フルベットしてしまう悪癖をまずは直さないと。
根の深いマインドコントロール
前述の「聖書の言葉が自分に当てはまらず、油そそがれた者だけに当てはまる」発言の元エホバの証人。この人が自分にも当てはまるという「天啓」を受けてから行っていたのが、自宅でのエホバの証人の記念式(主の晩餐)。
エホバの証人の記念式というのは、キリストの血肉を表象する無酵母パンとワインを参加者で回す。その血肉をすすれるのは、油そそがれた者だけという、まさにカルトっぽいイベント。
聖書の言葉が自分に当てはまるという「天啓」信者が、自宅で行っていた記念式。それは家族が全員、キリストの血肉すすり放題の家族全員食べ飲み型記念式。
こうなると何が何だか分からない。完全に迷走。
油そそがれたものの権威を否定している時点で、エホバの証人は棄教しているのに、イベントの形式だけはそっくりそのまま継承。逆に、自分の家族こそが油そそがれた者並みにキリストの血肉をすするべきだと思い込んでいる。
カルトを否定して、自分がカルトの中心に立っちゃった感じ。
こうなるとマインドコントロールが解けているのか解けていないのかすら微妙。エホバの証人のときは表面的なマインドコントロールに過ぎなかった。
エホバの証人でなくなったあとは、聖書は自分に向かって書かれたものだという信仰というか、思い込みというか、それこそが強烈なマインドコントロール。
信仰心が篤いのは、それはそれで問題の根が深い。