エホバの証人の懲らしめの鞭とは
母は、私を物心がついた頃から、エホバの証人の王国会館へ連れて行き始めた。当初、幼い私は王国会館で行われるエホバの証人の集会を拒否してぐずっていた。
しかし、父まで一緒にエホバの証人の王国会館へ行くようになる。そのため、私も集会の間は大人しくせざるを得なくなる。ちょっとでも静かにしていないと、懲らしめの行われる部屋へ連れて行かれ、しこたま痛い目に会う。
懲らしめとは主に体罰で、パンツを脱がされ、声を上げて泣くまでお尻を叩かれる。その後で集会場に戻り、周囲の痛い視線を浴びるのは、子どもながらに自尊心が傷つけられた。
逆に両親は聖書の教えに従い、懲らしめのムチを振るっているということで、周囲から絶賛される。そうして微かな自尊心をくすぐられる。このようにしてエホバの証人の親たちは、体罰という暴力にやみつきになっていく。
エホバの証人2世にとって、この世での生は無意味
エホバの証人の子どもが、何らかの欲求を主張したとする。その際、エホバの証人の両親は、子どもの欲求がものみの塔の教理に適っていない場合は力ずくで矯正する。
強引に強制的に修正される。エホバの証人は、それが親の責務だと信じ込んでいる。エホバの証人の子どもには手痛い体罰が待っているので、彼らははすぐに自分の希望を口にするのをやめてしまう。
それでも子どもがその要求を曲げなかったとする。その場合は、子どもが悪魔サタンの誘惑に負けていて、子どもの行為は悪魔の行為と同等であると親は信じている。結果、さらに強烈な懲らしめが待ち受けている。
エホバの証人の子どもは、自分の願いや思いを叶えること、さらには主張することすら諦めてしまう。自由意志の無い人生など生きている意味などない。
エホバの証人の子どもたちは、自由意志を封じられたまま大人になる。そういったエホバの証人の2世信者は、ものみの塔や宗教親から自由にならない限り、生きている意味などない。
子どもを殺すエホバの証人
エホバの証人の親は、カルト宗教に陥るような親なので、元々が精神的に未熟。子育てに迷い、行き詰まり、それでも周囲の助けを得て学びながら、親自身も成長していくべきだった。
しかし、エホバの証人になった親たちは現実から目を逸らすことを選んでしまった。カルトの教えを安易に盲信することで、子育ての問題を全部解決できたと思い込んでいる。
その解決策は下の下の下策。体罰という暴力。
この暴力はどこまでも増していく。子どもが最後まで折れない場合、やがて子どもを死に至らしめる。通常はその前に、エホバの証人の子どもは痛みの恐怖に敗北し、自分を押し殺すことを選ぶ。
エホバの証人独自の教理である輸血拒否で死んだ子どももいる。
エホバの証人の親は子どもに対して、現実の死を与えるか、自由を奪い精神的な死を与えるか。エホバの証人の親は子どもを死に至らしめる。
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