宗教施設に宿る人々の力と思い
私は、エホバの証人をやめて、キリスト教や宗教そのものを忌避する志向に陥っている時期があった。
エホバの証人の子どもだったために、エホバの証人が異端とするキリスト教の諸教会や日本の寺社仏閣を避けるよう教育を受けた。宗教施設に対するエホバの証人の偏見がなかなか拭えなかった。
それに加え、エホバの証人というカルト宗教でひどい目にあった。宗教はもうこりごり。神はいない。無宗教で無神論者です、という立場だった。
ところが、ここ最近では文化財などの建築物が好きになり、古今東西の教会から寺、神社などを巡るのが趣味になった。
参拝しに行くのではなく見学に行く。ついでに賽銭を入れて柏手くらいは打つが。大概の人の宗教心なんてそんな程度。エホバの証人のように、何もかもすべぶてを神、というか組織に捧げる必要などない。それこそ危険なカルトの要求。
キリスト教の教会は、エホバの証人の王国会館とは違い荘厳な雰囲気。多くの職人が精魂込めて造り上げた装飾。それらには何らかの力や願いが宿っている。
日本の社寺も同様。精緻な彫刻とそれを維持する人々の努力の結晶。簡易建築のエホバの証人の王国会館とはレベルが違う。そして数千年もの昔から、多くの人々が祈りを込めたパワーがそこにはある。
宗教施設に宿るのは人間の技術力や努力、そして願いや祈り。神が鎮座しているわけではない。人が自分の姿や心に似せて神を造った。それを理解していれば正当な宗教施設は怖くない。
エホバの証人の王国会館、羊を迷子にして喰いものにする仕掛け
私が目にしてゾッとするのは、エホバの証人の王国会館。無機質な建物の外見と、頻繁に集結する迷える信者。
強要と収奪という悪意がそこにはある。清潔感を意識したシンプルな外観は、人々の宗教への抵抗感を和らげるためのワナ。
エホバの証人組織は、ただひたすらに信者を増殖させることを目的としている。そのため、無駄な拒否感を生まないよう施設の外観をさっぱりさせている。
外観とは裏腹に、内情は別モノ。信者から、金も時間も何もかもすべてを吸い上げる仕組みが構築されている。
エホバの証人の王国会館にはさりげなく寄付箱が置かれているが、私の両親は毎月決まった額を寄付箱に入れていた。
好きなときに好きなように参拝することで、自身に好影響が生まれるのが理想的な宗教。「毎週3回、この時間に2時間ずつやって来い。でなければハルマゲドンで滅ぶぞ」と、強要されて王国会館に行くのはただの苦行。
時間と金を徹底的に収奪され、価値観を強要され、行動を変容させられる。そして自由意志を奪われ、思考停止。
自分を見つめるための宗教が、自分の時間を、自分の思考を失うことで、未来を見失わってしまう。エホバの証人は迷子の子羊を集めて救っているのはなく、羊を迷子にさせて、取って喰っている。