宗教で孤独は癒えない
『宗教2世』、Session3-3『2世たちの、その後』より。脱会当時者の声。
専業主婦だった母親も、信仰によって孤独から救われていた点があった。しかしながら、孤独になったときの救い手が宗教しかないという環境は、どうにかしないといけない
そもそも、宗教は孤独を救わない。宗教世界に浸ると自分を見つめることになるため、孤独を促進する向きの方が強いのではないだろうか。孤独を求め、孤独に打ち勝つモノ。
孤独を埋めたいのなら、趣味サークルにでも入れば良くて、宗教にそれを求めるから人生のバランスを崩す。
「私と神」の間に、仲間の信者とか、組織とかが入ってくる。集団になれば同調圧力が発生し、人間が付け加えた戒律も介在してくる。
そして、寄付金や時間のノルマ、集会などの儀式への参加の要求。宗教により、忙しくしているうちに、自分を見失う。
孤独は忘れ去られただけで、根本的な解決にはなっていない。
仲間の信者ができたところで、それは宗教つながりの仲間。宗教をやめたら決裂する関係が、本来の孤独を癒すことにはならない。
趣味サークルだったら、サークルをやめても気が合う友達となら、そのまま友人でいられる。宗教の場合は、どうしてもやめたら裏切り者という雰囲気が生じる。
宗教というのは、それくらい重いモノ。孤独を埋めるために安易に始めるモノではない。
宗教問題の報道
Session4-2『データから見る『宗教報道』の変遷』から。安倍元首相暗殺事件以降のメディアの姿勢を総括しつつ、事件以前をも振り返る章。
オウム真理教事件以降~現在まで、「宗教団体+問題」というワードでの新聞記事。元首相の事件が起きるまでは右肩下がり。
宗教の名のもとに不幸が再生産される状況に対し、国家的な支援や救済がどう行われるべきかという論点は、社会の課題として残ったまま
多くの人にとっては潜在的に、「宗教団体の問題は過去のもの」といった意識が共有されていた可能性がある
私も、オウム事件の前年にエホバの証人をやめているので、私自身にとっても宗教問題は過去のモノだった。内面はともかく、見た目には宗教なんて関係ない顔をして21世紀を迎えた。
この頃にも苦しんでいた被害者たちはいたわけで。問題を見過ごしてきたメディアの責任は大きいと思う。無視を決め込んでいた私も同罪だが・・・。
続いてテレビ報道。こちらは2007年以降のデータ。「エホバの証人」系ワードの番組、2007年~2022年までゼロ。
本当に最近まで、テレビでの「エホバの証人」報道が封印されていたことが分かる。
「なにごとにも時がある」って最近どこかで聞いた気がするのだが、本当にそうなのかも知れない。エホバの証人組織を糾弾するのは、まさに今このとき。
というか、「なにごとにも時がある」って、エホバの証人の大会で聴いたんだった・・・。毒されてるな・・・。
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