エホバの証人の輸血拒否事件、あと一歩で救われた命
『説得 エホバの証人と輸血拒否事件』の「第十一章 説得」
エホバの証人の信条による輸血拒否。その結果、少年が死に至る様子が描かれた本章。事故直後から亡くなるまで。
エホバの証人の両親が病院に駆け付けるのが遅れていたら、無事に輸血が開始されていた。少年の被っていた帽子に自宅の電話番号が書いていなければ、エホバの証人の両親に連絡が入ることはなかった。
何かひとつでもボタンを掛け違えていたら、少年は生き残っていた。生きていたとすると、亡くなった少年は私の5才ほど年上。21世紀の今ここに、家庭があり、子供がいてという可能性があった。
その可能性を打ち砕いたエホバの証人という宗教は決して許されるべきではない。
親であって親ではないエホバの証人
エホバの証人の親は、親のような者であって親ではない。本書のケースのように子の命をつなぐ輸血を拒否するのだから、保護者という呼称も適切ではない。保護などしていないのだから。
なぜ親が親のような者になってしまうのか。それは、宗教を第一優先にし、思考が停止してしまうから。エホバの証人の場合の宗教というのは、ものみの塔という組織とその教義。
そんなものを大事にするから、本当に大事なものを見失う。この事件では本当に大事なもの、子の生命を永遠に失った。
ものみの塔組織に依存し、思考を停止させると、「何が何でも輸血はダメなんですー!」となる。「死ぬとしても輸血はダメなんですー」と、本末転倒な事態に。
生きていないとさ、どんなに素晴らしい神様にでも祈れないじゃない。まず生きていること。宗教はその次なので、命を賭けさせる宗教はアウト。カルト。
献身を要求するエホバの証人はその時点でカルトだし、JWが命がけで輸血拒否するのは目立ちたいからという理由で、命を粗末にするのはもってのほか。
エホバの証人は「懲らしめのムチ」が大好きで、かつて全国10万人の子供を叩きまくっていた。ところが、この体罰行為は現在ではスカッと無かったことになっている。「聖書の記述のムチというのは文字通りの意味ではありません」という体裁。
輸血拒否も「聖書の血を避けよは医療行為としての輸血を表している訳ではありません」ということにすればいいのだが、問題が大きくなりすぎて、後戻りができなくなり、ズルズルと輸血拒否を看板として掲げ続けている。
何もかもを考えるのをやめ、その残酷でずさんな教義を必死に守ろうとすると、エホバの証人の親は親のような者に成り果てる。神なんか蹴っ飛ばしてでも守るべき、最重要な子の生命を永遠に失うことになる。
事故の知らせを聞き、駆け付けた父親。救命医療
センターに入ってくるなりその男は、
「まだ輸血はしてないでょうね」と言った
こんな状態になる。まさに思考停止状態の親のような者。こんな意味不明発言されたら、「バケツ持って廊下に立ってろ」状態だけどね。
“親であって親ではないエホバの証人(JW)、親のような者” への1件の返信