日本のエホバの証人は輸血拒否適用外
エホバの証人 – STOPOVER(途中下車)から。『ものみの塔の終焉』10章「輸血」
エホバの証人という新興宗教で、最もカルトな教理が「輸血拒否」の人命軽視。聖書中の律法に「血を食べてはならない」、と書いてあるのを輸血拒否の根拠としている。
本書では、エホバの証人の輸血拒否の教理を以下のように端的にまとめている。
神は創造者として「血」についてすべてのことを知っており、命の与え主として「血」をどう扱うべきかを定める全面的な権利を有しておられる。それゆえ人は創造者の律法を尊重しなければならない。
この時点で相いれない。
まず創造者っていないっしょ。神は死んだんだって。
創造主だから「血」についてすべてのことを知っている?そんな完璧な創造者ならとっくに、地球を完全な理想系にしているよね。愛ゆえに野放しにしているのでなく、無力ゆえ。そもそも創造者はいない。
命の与え主として、「血」の取り扱いを定める全面的な権利を有している?オレの「血」の使用用途はオレが決めますが。
創造者の律法を尊重?律法契約って有効なんすか?ここ日本国では無効ですよ。
流血の罪、エホバの証人の輸血拒否
前述の至って正常な発想ができないエホバの証人たちは輸血を拒否、「これで永遠の命ゲット~!」と妄信して死んでいく。無駄死に。命を何だと思っているのか。
完全マインドコントロール下のエホバの証人にも理解できるように、本資料では輸血拒否の無意味さについて説かれている。
聖書や律法で禁止しているのは、
- 流血の罪、つまりは人命の軽視
人を傷つけたり、殺したりすんなよということ。逆に
- 輸血は、人命を尊重するためのモノ
二者は対極に位置する。
聖書って「命大事にせいっ!」って書いてあるよね。どっかに。それがヒトとしての基本でしょ。字義的に書いていなくても、人命尊重は聖書の根底に流れる思想。輸血拒否って死んでいくのって、そのヒトとしての基本に反する行為。つまり、
エホバの証人の輸血拒否による人命軽視は、神の目の前で流血の罪を犯しているということ。
ちょっと考えたら分かるだろ。
聖書の「血を喰うな」にこだわる輸血拒否は
パリサイ人的な体質を反映するものであって、キリストによって断固として退けられた宗教モード
愛を持って「考えよ」ということ。目の前で苦しむ我が子が、輸血すればまた笑顔に戻れる。
それでも、聖書に「血を避けよー」と書いてあるって?確かに書いてあるね。でも「輸血拒否って死ね」なんてことは、聖書のどこにも書いてない。
「血を避けよ」を「輸血拒否」に意味不明に昇華させたのはものみの塔。
輸血を拒否して死ぬことは、神に対して人命軽視の流血の罪。
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