北海道広島会衆のエホバの証人集団排斥事件とは
ネットでダウンロード可能なエホバの証人解約資料。第3段はエホバの証人「組織とスキャンダル」。閲覧はJW解約-エホバの証人の真理を検証するから。
資料の最後は「北海道1978年事件」。私が生まれる前の大昔の話。北海道の広島会衆の金沢氏の話。北海道・広島・金沢と地名が三つも並んでややこしいのだが、それは置いておいて、広島会衆の長老が真実を追い求めた結果、会衆ごと集団排斥された事件。
(※後日訂正、1978年は広島会衆が設立した年、事件は1985年に起きている。正しくは北海道広島1985年事件)
この金沢氏は排斥後に金沢文庫としてものみの塔糾弾書籍を何冊か記している。私も集団排斥の本は読んだことがあったのだが、これを機会にもう一度読み直してみる。
金沢文庫へのリンクは、エホバの証人 – STOPOVER(途中下車)
エホバの証人1世信者と2世信者の違い
以前読んだ記憶としては、この金沢氏は非常にマジメ。真理を追い求める姿勢を貫いている、と感じた。
私のようなエホバの証人2世は、道や真理を求めていたわけでも、キリストの深~い愛に感銘を受けたわけでもない。親に強制されてエホバの証人にされただけ。
とはいえ、長いあいだ深い洗脳状態にあったので、ものみの塔の教理を一切疑うことなく信じていた。
信じているのと戒律を守るのは別で、エホバという神の存在を信じ切っていたが、ものみの塔の戒律を完全に守ることなどできなかった。ならば「ハルマゲドンでいさぎよく死んでやれ」というのが、私がエホバの証人をやめた理由。
道を追い求める1世信者と比べると、だいぶいい加減な生き方。死ねば無に帰するだけなら、全知全能神エホバも怖くない。ハルマゲドンどんと来い状態で怖いものなし。死ぬのも怖くない生活を行っていた頃、私の洗脳が解ける。
このエホバの証人 – STOPOVER(途中下車)などを始めとするインターネットが洗脳解除の原因だった。ものみの塔の真の姿を暴くネット記事で目が覚めた。「あぁ、ものみの塔ってオウム真理教や統一協会と何ら変わらないカルトだったんだ」と、目ざめた。
エホバという神は存在するのか
これ以降、私は宗教嫌いになった。宗教とは、人々の信じる思いの集合でしかない。つまり、幻想、虚構。虚像を作って儲けているのが、すべての聖職者とカルト教団なのだと考えるようになった。
金沢氏のような1世信者と違って、エホバの証人をやめた後も引き続き、道や神を追い求めることなど私には無かった。神なんていないから。ただの空想だから。信じられるのは自分の頭と自分の両手両足だけ。
この頃から20年近く経過して、私のエホバの証人だった頃の傷がかなり癒えた。すると、宗教嫌い、神嫌いも解消されてくる。
寺社仏閣や教会を多数見学したことも大きい。建築物としての興味もあったのだが、あの荘厳さの中に、やはり神は存在すると思うようになった。
神にもいろいろな種類がある。エホバの証人の王国会館に宿るエホバのような邪悪な神から、あらゆる物に宿る日本の八百万の神々、個人宅の神棚や個々人の精神に宿る神まで様々。
神社や教会のような金のかかる建物を維持できるのは、人々の願いや信仰が物質としての祈祷料や参拝料に還元された結果。つまり、寺社仏閣には人々の思念、願い、信仰が集合しているのは確実。
願いや信仰が神を生むのだとしたら、もはや神を信じるか信じないだけの差。信じればそこに神は宿る。
とはいえ、エホバという神は、エホバの証人がいくら健全でも根本が邪悪だからどこまで行っても邪悪な神。邪悪な神に祈るエホバの証人が健全な精神を保てるわけがない。そこら辺の神社にお参りする方がよっぽどご利益がある。
なぜなら、そこには普通の人々の普通の祈りが結晶として昇華しているから。その願いや、信仰の集合体を信じるか信じないかの話。信じれば身近に寄り添ってくれる神が宿る。ものみの塔の掲げる邪悪な神エホバとは違う。よこしまなものが混じらない。
組織崇拝、ものみの塔崇拝という偶像崇拝を結集させ、偽善と欺瞞を織り交ぜた邪神エホバとは違う。エホバの証人の神エホバは、輸血拒否で子どもを殺し、体罰で子どもを苦しめ、組織が児童性虐待の温床となってもお構いなしの邪神。
結論、エホバという神は存在する。非常に邪悪な存在として。同様に他のすべての神々も人々の祈りの結晶として存在する。祈るにふさわしいのは、当然ながら後者の神々。
“エホバという神は、果たしてこの世界に存在するのか?” への1件の返信