エホバの証人はなぜカルト宗教と言えるのか

宗教とは吹けば飛ぶ妄想に過ぎない

宗教には、信者全員が死んじゃったら消滅するほどの効力しかない。いわば妄想。この点で、命を捧げよという宗教は大いに矛盾している。信者全員が命を捧げたら、その宗教そのものが消滅する。

自己矛盾を抱えている宗教が救済となる訳がない。根本、目的が違うのだ。人々の救済を目的とした宗教ではなく、教祖の自己満足や統治体が儲かることを目的として構築された集金・集客システムである。

このため、命までを要求する宗教はカルトだと言える。命もしくはそれに等しいものを要求された時点で、その宗教の目的が薄ら見えてくる。教祖の自己顕示欲と財布を満たすという目的。ものみの塔協会の場合は統治体の贅沢三昧とものみの塔というシステムの維持。

カルトは、救済という宗教の仮面を被った蛇。よって、献身を求め信者の命に等しい全てを要求するものみの塔協会もカルト。つまりは蛇である。

エホバの証人がカルト宗教である理由

生活を第一に、その次の次の次くらいに宗教があるべき。宗教第一というのがもはやカルト。宗教第一になると、日常生活に支障がでる。エホバの証人なんて特にそう。

私も子どもの頃、エホバの証人だったせいで学校の行事に参加できず、節分の豆まきがトラウマになっている。給食の前の合掌の時間が辛くて体調を壊したことが何度もある。こんなエホバの証人が宗教かと。完全なるカルトだ。

ものみの塔協会は、信者に全時間の仕事を辞めさせ、高等教育を受けさせず、布教活動に従事させる。信者の日常にまで悪影響を及ぼしている。信者の日常生活を蝕むエホバの証人という宗教は完全なカルト宗教

祈りの存在しないエホバの証人の王国会館

妄想が祈りとなり、昇華しているのが寺院や教会で、それらは命まで要求しないし、許しの精神に溢れている。聖職者でもいつの間にか酒を飲んで妻帯するのがOKになっていたり、日曜にちょこっと行って懺悔すれば罪は許される。

人間の欲望を肯定し、宗教の規範の上に置いている。がんじがらめの規範に縛られる生活で心が休まるはずがない。エホバの証人のように病んでいく一方。

戒律を破ると終末に死が待っているよりも、自省の結果、罪の意識を感じるなら週末に懺悔してスッキリする方が、精神的に百倍安寧。宗教はこうあるべき。

信者の命を奪い、規定に外れたものを全て罪とするカルト宗教は妄想であり、その妄想の結晶たるエホバ、ましてはものみの塔にどれだけ祈りを捧げても所詮は妄想のまま、祈りには昇華しない。

故に王国会館はカルトの巣窟のまま。マイナスオーラだけが集まる負の敷地。

王国会館での熱烈な歓迎はエホバの証人がカルト宗教である証拠


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