「ふさわしくない」というおぞましいエホバの証人ワード
エホバの証人を辞めた後はもちろん、辞める前にもエホバの証人的思考から抜け出す必要がある。エホバの証人的思考とは、かくあるべき、こうあるべきという固定観念。
エホバの証人風に言うと”ふさわしい”、”ふさわしくない”の二択。
この”ふさわしくない”という言葉ほどおぞましい言葉はない。エホバの証人にとって”ふさわしくない”、この言葉で私は何度も一刀両断にされてきた。
友達と夏休みにキャンプに行きたい。友達の家で映画を見たい。少年野球を始めたい。そんな子供のささやかな望みが、エホバの証人にとって”ふさわしくない”の簡単な一言で許されない。
そうして制限されているうちに、こうあるべきというモデルプラン、ステレオタイプにはまりやすい思考に、エホバの証人2世の子供も陥っていく。ものみの塔協会の洗脳の結果。
この思考停止状態は、ものごとを深く考えなくて良いので楽。
エホバの証人を辞めたあとの思考方法
エホバの証人を辞めた元2世信者もこのエホバの証人的思考停止状態から抜け出すのが難しい。というのは、思考を固定して停止していれば、自分の辛い過去を掘り返して客観的に眺めたり、そのときにどんな気持ちだったかを思い出したり、そんなことを突き詰めなくて良いから。苦しくないのだ。
私が脱塔後に陥ったのは次のパターン。このパターンで思考・行動を固定、何も考えずに生きていた。
いかにエホバの証人らしくなく生きていくか、どのようにエホバの証人らしくなく振舞うか、そのモデルに”ふさわしい”自分を当てはめる。これこそがエホバの証人的思考。
神社や寺がしっくりこないなら、それで良い。無理に手を合わせる必要もない。必要な時が来たら、自ずと何かに手を合わせているはず。あるがまま、思うままに生きれば良い。
もっともっと自由で良い。しかし、自由でなければならないという訳ではない。エホバの証人を辞めたのだから自由でなければならない、などと思い始めるとそれこそがエホバの証人的思考。
寺社仏閣に行けば違和感を感じながらも「パチン・パチン」と柏手を打たなきゃならないし、参拝しないなら参拝しないで無頼を気取らなきゃいけない。そんな必要ない。あるがままの自分でいればいい。
他人の視線なんて気にしなくていい。自分のやりたいようにすればいい。何故なら、そんなに他人は自分に注目していない。自分のやりたいことを我慢していると後悔が残る。これは精神衛生上よくない。心の声に正直に、やりたいことはやっちゃった方が良い。
“”ふさわしい”、”ふさわしくない”の二択で決めつけるエホバの証人” への2件の返信