「ものみの塔=絶対悪」論者のエホバの証人的思考回路
『エビのしっぽ』より。著者は常々、エホバの証人、元エホバの証人はものごとを相対化できない。相対化して見られない、と警鐘を鳴らしている。
「ものみの塔=絶対悪」論を唱えている私なんかはその典型。
結論を絶えず不安定にするという方法もあります。つまり、その結論は暫定的なもので絶対的なものでない、新たな情報が入れば、あるいは見方の転換を図れば、すぐに修正可能な状態にしておく
確かに、私はこういった考え方をしない。「ものみの塔=絶対悪」論以外でもそう。何でも白黒はっきりさせたい。初対面で人と会って、
「こいつは敵か味方か?」と。ここまで大げさでなくても、
「仲良くなれるか否か?」「友達になれるか否か?」
今でも、第一印象で判断しがち。二十代の頃は本当に「敵か味方か?」で判断していた。
仕事でも同じ、「やるかやらないか?」「どうやるか?」結論を急いじゃう。
これがエホバの証人だったことと関係あるのか?
今までそんなに気にしていなかったけど、どうやら大アリなようで。
「ものみの塔=絶対悪」論者(また決めつけてるが・・・)としては、ものみの塔的思考が自分の中に寸分でも残っているのはイヤ。気持ち悪いというか、気に喰わない。
”ふさわしい”、”ふさわしくない”の二択で決めつけるエホバの証人
ハルマゲドンは全員即死?
ものみの塔教理は至って短絡。善悪きっちり。聖書が寓話的、教訓的なものなので、聖書は現実の縮図と言える。それを、そのまま現実に投影しちゃうから、信者の「決めつけ型思考」という不具合が生じる。
すべてを悪魔サタン的なものか神エホバ的なもので二分したがる。その中間とか、6:4でサタン、とか8:2で聖(エホバ=聖と定義するのに尋常でない抵抗がある。エホバ=悪ですよ。やっぱ。)とかはないのか?
後は、ハルマゲドンを生還するかしないか?これも二択になっているけれど、そんなに単純なものなのか?
そもそも、ノアは復活するけどサウルはしないとか(どんな設定になっているかは知らんよ。例えばという話ね)、お前ら決めんなよ。おこがましいっての。
とはいえ、復活うんぬんがものみの塔の創作。ゆえに誰が復活するかも、ものみの塔が勝手にほざいてるな、くらいで良いのか。
話がそれましたが、エホバの証人の決めつけ型思考の原因。ハルマゲドンの生還が二択になっているのが原因の一つ。
例えば交通事故死は、事故から24時間以内に亡くなった人があてはまる。交通事故の後遺症を患って半年後に亡くなったと。この場合は死亡事故対象外。
ハルマゲドンでこのケースはないんすか?ものみの塔本のイラストで瓦礫の下敷きになってる人とかいるけど、全員即死なんですか?
助かったと見せかけて、数日後に死んだとか、生死の境を彷徨っている家族を助けようとしたら、しばらくして死んだ。瓦礫片付けてたら思わぬ大ケガ。出血止まらない。輸血できない、死にそー、とか。
ハルマゲドンの直後にケガ人を助けるのは、「ふさわしい」ことですか?
こんなグレーケースないんですか?
「神は全知全能なので、ハルマゲドンで死ぬ人は全員即死です」。まぁ、エホバの証人はそんな無敵設定を持ちだしてくるんだろうけど。
では、一緒に生還できると信じて疑わなかった家族がハルマゲドンで死んだら。辛いよねー。それで精神を病んで、数年後に死ぬ。これハルマゲドン死?
「いや、ハルマゲドン後は完全な人間に生まれ変わるので、悲しみとかありません」と。ほほぅ、家族死んで悲しまないんすか?そんな完全人間、お断りっす。
ハルマゲドンって白黒決めつけずに考えると、ずいぶんグロテスク。残酷。
ハルマゲドンで大ケガした家族を助けるのは「ふさわしい」ことですか?
ご心配なく。ハルマゲドン起こりませんから。