ものみの塔は「ふるさと」にはなり得ない
『良心の危機』、第11章「決心」から。著者のたどる経歴は何となく知っていたので、この章あたりから激動するのかと読み進めるも、何となく不快感のある章。
しょうもないものみの塔資料の引用が減ったのは良いのだが、読みながら著者に感情移入したあと、はっと我に返る。すると著者の真意には、ものみの塔に対する僅かな親しみ、のようなものが混じっていて不快感を覚える。
私は育ったふるさとを捨てたのだが、それはそこで育っているときにエホバの証人の子供であったために、ふるさとが不愉快な記憶に満ち満ちているから。育った場所より、脱会後に住んだ場所の方が長いので、出身地としてそのふるさとの名を上げることもない。
とはいえ、そのふるさとが憎いかと言えばそうでもない。そのふるさとの記憶が忌ま忌ましいのは、そこがコンビニ一軒すらない田舎だからという訳でなく、エホバの証人の子供だった自分自身に由来する。
なので、そのふるさとが嫌いかと言われれば、そうでもなく。あんな田舎には二度と住みたくないけれど、景色は良いし、中には良い奴もいたくらいの感情。
著者のものみの塔に対する感覚もこれに似ている。だから不愉快に感じる。私のものみの塔に対する感覚は違って、ものみの塔が心の底から憎い、嫌い、カルトこそ滅びろと。
結局、現役信者であった頃の著者は、常に受け身で自らの所属するカルトに対して刃を振り上げることもなかった。本人がものみの塔をカルトと認識していないから。著者からは、ものみの塔は完全悪でなく良い面もあるという、微かな懐郷の念を感じる。
不愉快なエホバの証人だらけの環境での永遠は地獄
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