宗教は人生のスパイスにすぎない
『宗教2世』Session3、『語り合う2世たち』より。
本人が宗教を抜けたと言っていても、別の宗教に入信しなおすパターンは多くて、それは本当に抜けたといえるのかな?
本当に抜けたとはいえない。宗教中毒になっている。宗教依存。次から次へとっかえひっかえしても、何も見つからない。失敗から何も学んでいない。
宗教なんて人生に不要なモノで、人生のおまけ、スパイスに過ぎない。あればあったでいいけど、無ければ餓死する類のモノではない。とりあえず味がつけばいい。スパイスにこだわるのは趣味程度にするべきだし、スパイスを直接かじるようになれば、身体の方を壊す。
人生に特別必要でない宗教に固執して、時間を無駄にする。そして、また同じ過ちを繰りかえす。今度こそホンモノの・・・って。そんなことあるわけない。
神より大事なスマートフォン、神は博物館にでも飾っておけばいい
ニセモノの宗教の見分け方
ホンモノかニセモノかと、考えなければならない宗教は、全部ニセモノ。騙されていたら痛恨、というくらいに要求してくる宗教も、すべてニセモノ。
神社の賽銭とかおみくじなんか、ホンモノかニセモノか、当たるかハズレるかも気にしなくていい。たいした金額でもないし、人生も賭けてないから。
ホンモノだろうとニセモノだろうと、ひたすらに信じればいいだけなのに、ホンモノでないと困るから、ホンモノかニセモノかの議論になる。ホンモノでないと困るのは、奪われるモノが多すぎるから。
多くのモノを奪おうとするのは、その宗教がニセモノのカルトだから。
エホバの証人を筆頭に、全力での信心を要求してくる強欲カルトは、もしも、その宗教がニセモノだった場合、人生に痛恨のダメージを喰らう。そういった宗教は、全部ニセモノだと考えて良い。騙されているだけ。
しかし、そういったカルトに引っ掛かってしまうと、支払ってしまった代償を無に帰することが恐ろしくなる。だから、ホンモノでないと困る。ニセモノだと既に失ったモノが大きすぎる。激しくショックを受ける。だから、ホンモノであって欲しい。ホンモノに違いないと、思考が変化していく。
そして、圧倒的に不利なありとあらゆる状況証拠を見てみぬふり。無根拠な教理を鵜呑みにすることで、騙されていた場合の被害を見ないようにする。自ら盲目になる。
そうすることで、さらに被害が増え、泥沼化。それがカルトの思う壺のマインドコントロール。
既に無くしたモノは諦め、今後の人生でカルトに搾取されるであろう、恐ろしく莫大な価値に目をやるべき。その宗教はニセモノだから、それら未来のすべてを失うことになる。
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