脱会した宗教を、1ミリたりとも容認すべきでない理由

脱会が必要になる宗教は、完全悪

『宗教2世』Session3、『語り合う2世たち』より。

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脱会しても、一部の教えは、数十年と長いあいだ堅持されていて、「教えの良い部分は捨てる必要がない」と考える人もいます。それがマインド・コントロールの残存の結果なのかそうでないのかは、判断が難しい

こういった状態やもっとガチガチな現役信者でも、それがマインドコントロール下にあるとみなすか意見の分かれるところ。騙されているのか、思い込まされているか、信じ込まされているのか、はたまた思考を操作されているのか、呼び方の違い。

いずれにせよ、宗教の悪影響が残っているのは間違いない。

せっかく脱会したのだから、その宗教のことは全否定しておけば間違いない。

脱会しないといけないような悪い宗教なんて、たいていが全幅の信頼、妄信仰を要求してくる。そんな横暴な宗教に対して、脱会者側が一部譲って「良い部分がある」などと認める必要はない。

怪しげな教理を掲げておいて、全幅の信仰を寄せろという根本姿勢が間違っている。そんな奴らは1ミリたりとも信用できるはずがない。

元エホバの証人(JW)2世、今日も元気に闘います

教理に良い部分があるというのは、勘違い

教えの良い部分なんて、脱会した宗教にこだわらずとも、他の宗教にも同じようないい所はあるし、一般的な組織やグループの中にもある。

エホバの証人で言えば、エホバの証人的な良いところ、例えば、自称勤勉、思いやり、兄弟愛、そんなモノは一般社会では最低限の常識。あえて、ハルマゲドンや輸血拒否という極悪教理を掲げるエホバの証人に求めるモノではない。

脱会せざるを得ない宗教なんて、根幹が腐っているのだから、枝葉も毒。取り立てて褒めたり認めたりするべき良い所なんてない。

脱会信者が元の宗教に一切の理解を示すべきでない理由

こういった、宗教の悪影響が残っている脱会信者は、「あの宗教にも良い部分もあった」と、脱会した宗教に一定の理解を示すことで、自分の過去を無駄にしたくない、全部を否定したくないという心境にある。

自分の行動のすべてが間違っていたと思うのが、苦しい。だから一部だけでも肯定しようとする。

甘い。その甘さが、再度同じ過ちを繰りかえすのではないかと心配になる。脱会せざるを得なかった腐った宗教なのだから、きっちり否定して清算しておくべき。

そして、「あの宗教にも良い所がある」なんて脱会者が語ることは罪深い。せめて黙しているべき。経験者として脱会した宗教を一部擁護することは、被害者の増殖を援護することになる。囚われたままの現役信者の救済を遅らすことになる。

腐った宗教で得たモノなんかより、失ったモノの方が圧倒的に大きい。合算すれば大きなマイナスになる。ごくわずかなプラス要素など、その宗教を語る上でなんの価値にもならない。極悪宗教のメインストリームで大被害を受けるのだから。


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