エホバの証人の決して許されない罪、世のもの未満の最底辺・独善的行動

エホバの証人の許しは教団基準

エホバの証人の週末の集会テキスト(2024/2/5-2/11)から。

アブラハムの手本について学ぶことは,アブラハムのような信仰を育てるのに役立ちます。アブラハムは神に言われた通りに行動しました。遠く離れた土地に出掛け,何十年も天幕生活を続け,愛する息子イサクを犠牲として捧げようとしました

んん?息子を犠牲として殺そうとしたんですよね?イカレてやがる。エホバの証人はこんな奴を手本にしろと、子どもを参加させている週末の集会でやっている。

エホバ「アブラハムさん~、息子をぶっ殺しなさーい」

エホバは,ご自分に信仰を持つ人たちの罪を完全に許し,それを後で持ち出したりはしません。そうした人たちの信仰に注目して,罪がない正しい人と見なしてくださる

信仰があれば、罪人ですら正しい。おいおい、それ無理があるって。信仰があれば何をしても許されるかって?許されないよ。罪は罪だろ。法で裁かれるべきだし、法で裁かれないエホバの証人の罪を、私は許さない。

信仰があれば何でも許されるなんて、暴論もいいところ。こんな暴論を見過ごすから、エホバの証人みたいなカルトがのさばるんだよ。

まず、法治国家に法よりでしゃばる神なんか要らない。そして、そんなでしゃばり神は秩序を乱し、必ず災いをもたらす。それはエホバの証人を見れば明らか。エホバの証人は、法で裁かれないところで大きな罪を犯している。

例えば、エホバの証人の輸血拒否で、いったいどれだけの信者が無駄死にした?エホバの証人に献身して、いったいどれだけの信者が人生を無駄にした?真理でないモノを真理だと騙されて歩んだ人生は無駄なんだよ。

そんな罪すべてが、存在すらしない神への信仰で許されるって?そんな暴論を述べる宗教がカルト。エホバの証人の存在を容認すべきではない。罪は罪、信仰はなんの許しにもならない。その秩序を乱すのは、まさにカルトの所業。

神に信仰を持てばなんでも許されるなんて、ふざけすぎ。なめすぎ。エホバの証人の神エホバはいないので、許しの基準が教団基準。人間基準。カルト信者基準になる。なめてるんだって。

エホバの証人の罪は、決して許されない

パウロは行いによらずに信仰によって正しいと見なされると言っているのに対し,ヤコブは神に喜ばれるには行動が欠かせないと教えている

パウロもヤコブも聖書を書いた時,エホバの聖なる力に導かれていたので,内容に矛盾はないはずです

聖なる力って何だよ。前提がギャグ、主張として成り立たない。

この後、信仰を持って行動する必要があるという話になるのだが、そもそも、エホバの証人の行動がショボい。それより、自分たちが犯した罪を省みろよ。

エホバに信仰を持っていることを表す方法はいろいろあります。引っ越してきた兄弟姉妹や集会に出席するようになった人を温かく歓迎したり,困っている仲間を助けたりできます。家族に親切にすることもエホバに喜ばれます

兄弟姉妹、仲間、家族?なにそれ?身内だけ?

エホバの証人の美徳は、主に仲間うちにしか向けられない。別に良いんだけど。世の中そんなモノだから。それ、世の中の最低限なんだよ。家族を忌避しているエホバの証人もいるから、エホバの証人の「世のものではない」は「世のもの未満」最底辺ということ。

そしてこう続く。

さらに,良い知らせを熱心に伝えることはとても大切です

そんな行動がなんになるんだよ。教団基準の行動で罪が許されるという独善的主張。エホバの証人の嘘真理を伝えるのは、罪を重ねること。

子どもを打ち叩いてきた罪、数多の家族を崩壊させた罪、断絶排斥者を忌避してきた罪。エホバの証人の重い罪は、どうでもいい非存在神への信仰と、世のもの未満の最底辺行動や、教団基準の独善的行動では到底許されない。


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