エホバの証人の聖書、神「のような」者は神だろ・・・

「真理」は求め続けた者だけに・・・

エホバの証人がモノホンである証拠として自称しているのが、「エホバの証人だけが真のクリスチャンとして選り分けられている」という論調。

エホバの証人のマインドコントロール用教材の『いつまでも幸せに暮らせます』レッスン19『エホバの証人は本物のクリスチャン?』でもこの点に触れている。

1世紀のキリスト以降、19世紀にエホバの証人が登場するまでに「キリスト教は背教に走ったのだが、初期のエホバの証人は聖書をきちんと調べ、聖書の真理を見極めた」とか何とか・・・

初期のエホバの証人にしても、見極めたモノを真理だと思っちゃうのが甘ちゃんなんだけど、さらにこれに騙されている末期のエホバの証人が全世界に800万人。

「真理を見つけた!」って安心できる方が楽だから、自堕落な人々は安易に楽な方に流されていっちゃう。コロッと騙されちゃう。求めるのをやめちゃう。違うだろ。聖書にゃ、「求め続けなさい。探し続けさい。」って書いてある。そんな簡単に「真理」は見つからないんだよ。

ChatGPTとの対話、エホバの証人は間違っているのか?

「のような」者。

エホバの証人は、キリストが死んだ後で背教に走っていた設定の普通のキリスト教との違いを全面に押し出したい。そのため、教理にユニークさを出す必要があった。違いがないと「これこそ真理!」って騙せないから。

ユニークに創作した教理は、結局は異端なのだが、そのうちのひとつが三位一体。

三位一体というのは父と子、聖霊が一緒なのか違うのかという、どうでも良い議論。神のことなんか、分かりゃしないって。いるのかいないのかも分かんないだもん。

とりあえず、エホバの証人は異端で、三位一定を否定している。

その三位一体についての、エホバの証人の不誠実な態度。ヨハネ1章1節と1章18節、各翻訳から見ると・・・

聖書協会共同訳

1-1言は神であった
1-18父の懐にいる独り子である神

新共同訳

1-1言は神であった
1-18父のふところにいる独り子である神

口語訳

1-1言は神であった
1-18ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが

言葉は神で、ひとり子も神という書き方。だから三位一体ということ。以降はエホバの証人の聖書。

1985年版、エホバの証人の新世界訳聖書

1-1言葉は神であった
1-18父に対してその懐[の位置]にいる独り子の神

日本語だと、ほとんど同じ。言葉もひとり子も神。この時点でも英語版では、神の方は「God」、言葉やひとり子と結びつけられる方は「a god」「the…god」で区別している。「god」の方は「神」じゃないという体裁。否三位一体。断固否定。日本語だと一緒なんだけどね。ホンモノ設定の方だけ『神!』とかにするわけにもいかないしね。

そして、現行版のエホバの証人の日本語聖書。

2019年、エホバの証人の改訂版新世界訳聖書

1-1言葉は神のようだった
1-18天の父のそばにいる,神のような独り子

神のよう

神のような

って・・・書き換えてんじゃん。

というか、神のようなって、もう神じゃね?

エホバの証人はどうしても神と言葉も、神と子も別にしたい。三位一定を否定して教理の独自性を保ちたいから。そのために、神「のような」というインチキ臭い表現を持ち出している。

これはまるで・・・

 

背教者「のような」者。

いや背教者か。聖書には何も付け加えてはならないって、聖書そのモノに書いてあるしね。


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