エホバの証人と戦争
『近現代日本とエホバの証人』、第二章「灯台社の時代」末尾部分。
日本におけるエホバの証人の始まり。戦前に明石順三が米国から持ち込んだことに由来する。戦時中にはエホバの証人は思想犯として逮捕収監された。
当時のエホバの証人活動が「平和と反戦」という方向性で好評価されることがある。軍務を拒否し、戦争にも反対したと。
この大戦が敗戦に終わったことや、統帥権の濫用による暴走・無計画とも言える開戦までの成り行きにより、この戦争を批判することが盲目的に正しいとされる風潮もある。
先の大戦の是非を問うのは、このブログの主旨とは異なるし、一概に断じれるほどの知見も無いので避ける。「日本のエホバの証人が、戦時中に戦争反対の行動を示していて素晴らしい」という意見に対してだけは、反対意見を述べておきたい。
国民として戦火の中にあった場合、エホバの証人のように「戦争反対、兵役拒否」という態度をとるのが果たして正しいのか?戦争の是非はともかく、始まってしまったら、国民として成すべきことを成すという態度が正しいのではないだろうか。
戦争賛成と言っているのではない。戦争で死んだり、殺し合ったりするのは絶対にイヤだし、少なくとも平和主義を謳っている、この時代この国に生まれてきてラッキーだったと思う。
とはいえ、実際に戦争が始まってしまったのなら仕方ない。国民としてやれることをやるのが正しいのではないかと。
当時のエホバの証人の反戦行動が国全体に広がったとすると、戦争を継続することができず、早々に国家瓦解。中途半端な国として疎んじられ、外国の分割占領統治を許し踏みにじられ、現在の日本という国は存在しない。我々の祖父、曾祖父の世代は他国に搾取され犯されという目に遭う。
個人として戦争反対という意見を持つのは何の問題もない。戦争が始まってしまっても反対は反対、という個人的態度をとりつつも、国民としての責任・義務は何らかの形で果たす。それがあるべき姿。非常時の国家で逮捕収監されてまでお荷物になるのはいかがなものか。
『近現代日本とエホバの証人』、カルトに取って喰われる無自覚層
ブレずに教団至上主義のエホバの証人
同様に開戦に反対し、戦時中にも早々の和平を訴えた人々もいて、こちらの人々は戦後再評価された。戦後の復興にも大いに貢献する。
この人たちとエホバの証人は違う。彼らは、時代に流されず自分の意見を持ち続け、戦後という未来を見ていた。未来を描くという形で国民としての責務を果たそうとした。
エホバの証人の場合は異なる。そもそもの反戦が自分の意思ではない。エホバの証人の教理、教団の言いなりになり、自分の意見などない。エホバの証人組織至上主義。国家の非常時に何も考えず、敵国由来の組織の言いなりになっていただけ。
この点を本書では以下のように述べている。
明石や灯台社、そして戦後のエホバの証人もじつは一貫しており、ブレはない
戦前から今日に至るまで、エホバの証人はブレることなく、カルト教団にマインドコントロールされ、無自覚に社会に害悪をもたらしている。
信者たちは反戦運動や平和運動をしていたのではなく、あくまで偶像崇拝や殺人(につながる行為全般)を禁じるエホバ神に忠実であり続けようとしただけ
ここで言うエホバ神など存在しないので、エホバ神という建前のエホバの証人組織に忠実であろうとしただけ。エホバの証人は過去から今に至るまで、カルトの言いなりになっているだけで、過去の反戦行動など評価されるべきものではない。
“エホバの証人の反戦、平和的行動が評価されるべきでない理由” への1件の返信